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SUPER JUNKY MONKEY 〜最愛のバンドと過ごした日々 第1話

SNSでステージダイブの話題が出るたびにアップされる動画がある。

1995年にテレビ東京の『タモリの音楽は世界だ』という番組内で放送された「あいえとう」という曲のライブ映像で、4人のミュージシャンと、次から次へとダイブを敢行する若者達が映し出される。

『AIR JAM』以降、誤ってダイブと呼ばれている観客達の頭上を転がるクラウドサーフではない。文字通りステージ上から客席めがけて宙を舞うステージダイブの嵐が、ゴールデンタイムのキー局で放送されたのである。

続々とステージに現れる観客達をものともせず演奏を続けるのは、SUPER JUNKY MONKEYのMutsumi623(vo)、KEIKO(g)、かわいしのぶ(b)、まつだっっ!!(ds)。

90年代の国内オルタナティヴロック・シーンを牽引したSUPER JUNKY MONKEYは海外からの評価も高く、アルバムが全米リリースされ、ツアーも実施。米『Billboard』誌の表紙も飾っている。
実現しなかったものの、KISSやNINE INCH NAILSから全米ツアーのサポートを依頼されたこともあった。

さまざまなジャンルのライブを数千回観た中で、最も衝撃を受けたSUPER JUNKY MONKEYの思い出を綴る。

photo by Midori


*     *     *


1993年12月12日 @下北沢 Shelter

友人に誘われ、あるバンドを観に下北沢シェルターへ。そのバンドに興味があったわけではないが、週末の予定は何もなかった。その日の出演バンドは3組。その中に彼女達はいた。

SUPER JUNKY MONKEYというバンドの名前は聞いたことがあった。ちらっと見た雑誌には人気があるように書かれていたが、その日の集客は噂ほどではなかった。 しかし、彼女達のライブは衝撃的だった。

ジャンルを超越した楽曲と、卓越した演奏技術に驚愕。その頃、すでに都内で活動するミクスチャーロックバンドがいくつか存在していたが、それらのバンドとは異なる独創的なサウンドを鳴らしていた。

そしてヴォーカリストの存在感。ダイナミックな身体の動き。ステージ上でグワッと振りおろされる上半身にワンテンポ遅れて伸びてくるおさげ髪が魅惑的だった。

4日後に三軒茶屋ヘブンスドアで行われるライブをレコーディングして、インディーズレーベルからライブアルバムを出すという告知があった。観に行きたいと思ったが、当時大好きだった2組のバンドが共演するイベントと同日。すでにそちらのチケットを購入していたので、泣く泣くあきらめた。

終演後、機材を撤収しているメンバーの姿を見て驚いた。ステージ上の印象よりも遥かに小さかった。

photo by Keiko Yoshida


1994年1〜2月
この頃、SUPER JUNKY MONKEYは頻繁にライブを行っていた。
彼女達に興味を示す人間が周囲に全くいなかったので、一人で通った。
ウォークマンで録音したライブのテープをくる日もくる日も聴き続けた。


1994年3月20日 @三軒茶屋 Heaven's Door
前年12月16日にライブレコーディングされた『キャベツ』のレコ発。このライブ盤がSUPER JUNKY MONKEYの最初のアルバムだった。
なかば強引に3人の友人を引き連れ、ヘブンスドアへ。

この日まで何度かSUPER JUNKY MONKEYのライブを観てきた。彼女達を目当てに来ている客はそこそこいるものの、盛り上がっている感じはあまりなく、いつも物足りなかった。

ライブが始まった。友人達の表情が変わっていった。
「Revenge」という40秒弱のファストチューンでダイブした。ヴォーカリストの睦ちゃんが大喜びした。

終演後、友人達と飲みに行った。朝までSUPER JUNKY MONKEYの話をした。
その日以降、みんなでライブに通った。


1994年4月4日 @新宿 Loft
新宿ロフトで、初めてきちんと睦ちゃんと話をした。
メンバー全員に『キャベツ』のCDにサインを入れてもらった。

『キャベツ』 CD (1994)


1994年4月20日 @三軒茶屋 Heaven's Door
ロフト以降、2回ライブを観に行き、睦ちゃんといろいろ話すようになった。
すっかり仲良くなった睦ちゃんとライブを観に行くことになった。WRENCH、GMF、BLIND JUSTICE(後のenvy)が出演していた。

平日だったが、睦ちゃんにせがまれて打ち上げに参加することになった。
大勢で店に向かっていたとき、少し前を歩いていた睦ちゃんと友達の会話が聞こえた。「SUPER JUNKY MONKEYって、いつぐらいからお客がつくようになったの?」という問いに「12月のシェルターから」と答えていたのが聞こえ、嬉しくなった。

その日出演していたバンドマンとも仲良くなった。それまで観に行っていたのは歳上のバンドばかりだった。同世代のバンドマンとつながりができた忘れられない日となった。


1994年某日
10月にリリースされるメジャーデビューアルバムの収録曲「記憶の捏造」のコーラス入れに参加。レコーディングというものを体験した。

『SCREW UP』 CD (1994)


都内で行われたSUPER JUNKY MONKEYのライブには、よほどのことがない限り必ず観に行った。地方に行ったりもした。

雑誌のコメントやフリーペーパーのコラムを書いたこともあったし、テレビ番組の収録を手伝ったことも何度かある。『タモリの音楽は世界だ』にSUPER JUNKY MONKEYが出演したときは「よいこのダイビング講座」というコーナーでダイブ名人役を担当した。

『あいえとう / A・I・E・T・O・H』 10 inch vinyl (1995)


USツアーに数日同行したこともある。
メンバーやスタッフとドジャー・スタジアムに行って、一大ブームを巻き起こしていた野茂英雄を応援した。

『PARASITIC PEOPLE / 地球寄生人』 CD (1996)


SUPER JUNKY MONKEYのメンバーとスタッフには本当に良くしてもらった。よく遊んだ。よく飲んだ。
でも、一番遊んだのはやっぱり睦ちゃんだ。ライブに行ったり、飲みに行ったり、買い物に行ったり。長電話も頻繁にした。手紙ももらった。口論もした。

『SUPER JUNKY ALIEN』 CD (1996)


1998年
彼女を取りまく環境が一転した。バンドの音楽的な方向性にも変化が現れた。ライブの雰囲気も。
別人のようになってしまった睦ちゃんと話すことが辛くなってしまった。ライブから足が遠のいた。

7月17日にシェルターで行われたSTROBOのレコ発を観に行った際に、SUPER JUNKY MONKEYがゲスト出演していたが、睦ちゃんとは挨拶程度の会話を交わしただけだった。


*     *     *


1998年8月27日 @新宿 Liquidroom

新宿リキッドルームで開催されたイベントで、SUPER JUNKY MONKEYのライブを観た。そのサウンドは前回よりも進化していた。

SUPER JUNKY MONKEYの出番が終わってから、ロビーで顔を合わせた睦ちゃんと久しぶりにゆっくり話をした。彼女はとても喜んでくれた。

イベント終了後も、睦ちゃんといろいろ話した。
ライブアルバム『キャベツ』が数年後にアナログ化していた。他のメンバーには、前年のあるイベント(※)で共演させていただいた際にサインを入れてもらっていたので、睦ちゃんにもお願いした。

※睦ちゃん以外のメンバーが各々のユニットで出演。私はDJとして参加させていただいた。

『キャベツ』 LP

帰り際に「またね~」とぶんぶん手を振ってくれた睦ちゃんの笑顔が忘れられない。それが最後だった。


1999年2月
真夜中に電話が鳴った。
「ゴベちゃん・・・」
ベースのしのぶちゃんの声を聞いた瞬間に、睦ちゃんが死んだと思った。

『PERFECT MAG.』VOL.7
1999年5月9日に新宿リキッドルームで開催された睦ちゃんの追悼公演『SUPER JUNKY MONKEY / MUTSUMI TRIBUTE - HOLY MOTHER OF MEATLOAF』の入場者に配られたパンフレット。

『E・KISS・O』 CD (2001)
睦ちゃんが亡くなった2年後の2001年にリリースされた未発表音源集。


(つづく)


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