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【プロレスと私】 第4回 1977年の全日と新日の温度差 ~オープン・タッグとグレート・アントニオ戦(1977年)

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 1977年の全日本プロレスといえば、年末における看板シリーズ『世界最強タッグ決定リーグ戦』の前身となる『世界オープン・タッグ選手権』が開催されている。
 全日本プロレス所属選手や外国人選手、当時交流があった国際プロレスから選抜された9組によるリーグ戦で、12月15日に蔵前国技館で行われた最終戦まで優勝を争っていたのは、ジャイアント馬場&ジャンボ鶴田、ザ・ファンクス(ドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンク)、アブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シークの3組。

 優勝をもぎ取ったのは、最終試合でブッチャー&シーク組から勝利(反則勝ち)をおさめたファンクス。この試合を観て「悪役レスラーの凶器攻撃によって右腕から大量の血を流しながらも、真っ向から立ち向かうテリーに感動した!」という少年少女ファンが激増。日本におけるファンクス人気を確立した歴史的一戦として知られている。

 しかし、私はこの試合をリアルタイムで観ていない。当時の『全日本プロレス中継』は、全国の子どもたちが『8時だョ!全員集合』を観ていた土曜の夜8時に放送されていた。
 この年の2月に『ドリフ大爆笑』(フジテレビ系列・1977年2月8日~1998年4月16日)が、そして10月にはザ・ドリフターズのメンバーが『西遊記』の登場人物に扮した人形劇『飛べ!孫悟空』(TBS系列・1977年10月11日~1979年3月27日)がスタート。まさに絶頂期に突入していたドリフの人気番組を蹴って裏番組のプロレスを観ている子どもなんて、ごくわずかだったはず。少なくとも、幼稚園で会う同い年の友人たちは皆、ドリフに夢中だった。

 のちに、全日の名勝負を放送する番組でオープン・タッグ最終戦のファンクス vs ブッチャー&シーク戦を観ることができた。しかし、その試合内容はあまりにもお粗末なものだった。
 ブッチャーとシークが凶器でテリーの右腕をめった突きにしていても、レフェリーのジョー樋口は試合を続行。しかし、自分が攻撃された途端に試合終了のゴングを要請・・・。ブッチャーがテリーの腕にフォークを突き刺した時点で反則負けにすればよかったと思うのだが。
 試合を盛り上げる演出とはいえ、あまりにもチープすぎやしないか。同じ時期に異種格闘技戦を行なっていたアントニオ猪木(新日本プロレス)とは雲泥の差がある。

 1977年8月2日、猪木は全米トップ空手家のザ・モンスターマン・エベレット・エディと対戦(日本武道館)。一連の異種格闘技戦の中でも、屈指の名勝負として語り継がれている。

 全日のオープン・タッグ最終戦が行われる7日前(1977年12月8日)の蔵前国技館大会で、グレート・アントニオを制裁。薄笑いを浮かべながら何度も太鼓腹を突き出して観客の笑いを誘う怪力自慢の巨漢レスラーを、張り手の連打から瞬時にテイクダウンして顔面蹴りを連発。わずか3分49秒でKOしているのだ。
 両団体の温度差を考えれば、大多数のプロレスファンが猪木を支持したのは当然のことだろう。

 ちなみに1977年8月2日のモンスターマン戦から、猪木の入場テーマ曲として「Ali Bombaye」が使用されている。
「Ali Bombaye」は、1977年に公開されたモハメド・アリの自伝映画『アリ/ザ・グレーテスト』のサントラ盤に収録されている曲で、前年(1976年6月26日)に文字通りの死闘をくり広げた両者の間に芽生えた友情の証として、アリから猪木に送られたといわれている。

 そして、”アリ・ボンバイエ”の部分を”イノキ・ボンバイエ”に変えて新録されたのが「炎のファイター 〜INOKI BOM-BA-YE〜」。1977年12月8日のグレート・アントニオ戦で初披露され、1998年4月4日の引退試合まで使用された、誰もが知る名曲である。


(つづく)


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