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「世界を広く学び、自分を深く知る」という理念について

どうも、しょーじです。
京都大学教育学研究科の修士課程を休学し、GOALOOK学習塾の副代表に就任。現在はオンライン教育サービスdialogueの立ち上げに取り組んでいます。

今回は我々が掲げている「世界を広く学び、自分を深く知る」という理念を紐解いていきます。

まず「世界を広く学ぶ」とは一体どういうことでしょうか?
日本だけではなく、ヨーロッパやアメリカなど他の国のことを学ぶことでし
ょうか。

では各国の何を学ぶのか?それは歴史であったり、それを駆動させる政治、経済、科学技術であったり、さらにその背景にある宗教や哲学思想かもしれません。

次に「自分を深く知る」とは一体どういうことでしょうか?
古代ギリシャの哲学者ソクラテスは「汝自身を知れ」と良い、古代中国の軍事思想家の孫子は「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」と言いました。

自らの信念に従って
毒杯を仰って亡くなったソクラテス

しかしながら「自分」というのは極めて曖昧で抽象的な概念です。
「自分」=「心+身体」 と素朴に考えたくなりますが、髪の毛は自分?爪は自分?じゃあ爪垢は?と考えていくと、その境界は極めて曖昧な事に気づきます。

さらに”自分たち”という概念まで拡張すると、それは同じ家系、同じ宗教の信者、同じ国の国民、同じ肌の色の人種など、多様な視点から定義されるものになって行きます。

このように複数の視点から物事を捉える思考をすることが「自分」を理解するためには大切であり、ここにおいて「世界を広く学ぶこと」と「自分を深く知ること」が繋がります。

例えば、現代の日本の教育現場では学年別に集団授業をすることが当たり前で、みんなそれに合わせるべきであり、それに馴染めない人は「社会不適合者」だとネガティブに評価されてしまうような風潮が一部あると思います。

しかし学年別の集団授業は近代化が進んだ明治時代以降に採り入れられた制度であり、それ以前の例えば江戸時代の寺子屋では個々の学びのペースに合わせた教育が行われていました。

それぞれが自分のペースで学ぶ寺子屋

さらには「集団授業に適応できない子ども」=「自分の興味のあることを主体的に学びたい子ども」である事も少なくなく、そういった個性を持つ人材は、ビジネスやサイエンスなどあらゆる業界で必要とされる時代に突入しています。

そうした事実を知ると「集団授業に適応できない子ども」を、”社会”という言葉の意味も定義しないまま「社会不適合者」だと雑に決めつけてネガティブな評価することがナンセンスであることに自然と気づけると思います。

このように「世界を広く学ぶ」= 「異なる国や時代の社会制度・文化・思想を学ぶ」ことで、自分自身が持っている価値基準が浮き彫りになります。(例:「学校には行くべきで、不登校は良くない」)

そして、それが現代社会を生きる上で、とても大切なことだと考えています。なぜなら我々が感じる苦しみの多くは、「特定の価値基準」への執着から来ているからです。

現代人の多くは最低限の衣食住には困っていないのに、周りの人より年収、地位、SNSのフォロワー数が低い事に落ち込んでしまったり、自分と異なる考えを持つ人との喧嘩や争いが絶えないですよね。

それはお金、地位、思想などの特定の価値基準に囚われているからであるという見方も出来ると思います。

それに気づくと、次はその価値基準に従うことが本当に自分を幸せにするのか?と更に問うことができる。そのようなプロセスの中で、自分が本当に大切にしたい価値基準に迫ることが出来ます。

グローバル化の進む現代は、異なる価値基準が乱立する多様性の時代だと言われます。そんな現代を強くしなやかに生き抜くためには、自分とは異なる価値基準を多角的な視点から柔軟に受け入れつつも、苦しい時に依って立つことの出来る自分なりの価値基準を持つことが必要だと思います。

他者の価値基準に迎合せず、でも無根拠に否定もせず、その本質を謙虚に学び取っていく。それにより形成された自らの信念を貫くことの出来る人間は、きっとこの激動の社会を強く、そして優しく生きていくだろう。そして、そのような人間が増えればこの社会はもっと豊かになると思う。というよりも、そう信じる。

そんな想いを「世界を広く学び、自分を深く知る」という理念に込めました。読んで頂いた方の人生が少しでも豊かになることを切に願います。

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