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退職5ヶ月:俳句編その1・俳句と写真と

なにもなにも、ちひさきものはみなうつくし。
  ―清少納言『枕草子』より

清少納言の時代には、まだ俳句は存在しなかった。
「小さいもの」を愛でた清少納言。もし俳句という形式を知っていたら、はまっていたんじゃないか、という気が、何となくする。

俳句とわたしの関係については、下記をご覧ください。

退職5ヶ月。わたしの俳句修行は、のろのろと亀の歩みで進んでいる。

折々の俳句を作ること、気に入った近代俳句をツイートすることは、まだ続けている。
しかし、方向性は少し変えている。

きっかけは、夏目漱石の句だった。

さて、あなたは、これだけの説明で、「のうぜん」がどんな花かイメージできるだろうか?
実際にノウゼンカズラを見たことがある人にしか、たぶん分からない。

悩んだ末、こんなツイートをぶら下げてみた。

下手な写真だが、これならノウゼンカズラがどんな花か、分かるだろう。

その後も、写真付きで、いくつかツイートしてみた。
写真なしの句より、明らかに、反応がいい。

やってみるか。

2021年の春から、俳句には、できるだけ写真をつけることにした。
逆だ。写真に合わせて俳句を選ぶようになった。

原則は2つ。
写真は、自分の撮ったものだけを使う。他人の撮った、いわゆる「借りもの」は使わない。
他人の俳句を紹介する際は、原則として、本人の句集または出版された歳時記からとる。ネットで検索もするが、あたりをつけたら、表記は書籍に準拠する。ネットだと、たまに、「政岡子規」なんて表記のものがあるからだ。

情報信ずべし、しかも亦信ずべからず。
  ―菊池寛『我が馬券哲学』より

被写体の問題がある。
わたしの被写体は、植物が多い。それも、綺麗な花だけでなく、雑草に分類されるようなものも撮る。

たとえば、こんな感じ。

果たして、こんな雑草の類が、季語になっているのか?と思った。

……杞憂だった。歳時記を繰ると、雑草の類もけっこう載っている。
昔の人たちにとって、雑草は、身近な存在であったようだ。

※上の2枚、撮影日は「2021年9月」ではなく「8月」です。

自作の句にも、写真をつけてみた。

調子に乗って、こんな句も。

☆…………☆…………☆

自分が目指しているのは、「写真俳句」とか「フォト俳句」と呼ばれるものなのだろうか、と思った。

自分の写真は、ご覧の通り、素人に毛が生えたレベル。あくまでも自己流である。
カメラ歴は短くないし、単発でワークショップに参加したことは何度かあるが、特定の師について教わったことはない。カメラの扱い、絞りとシャッタースピードの関係だとか、構図だとか、そういったことはすべて独学である。
強みがあるとすれば、新聞社にいた時、たくさんの写真を見てきたことかも知れない。

俳句も、似たようなもの。独学で、一応十七音のものは作れる。でも、その先には、なかなか進めない。

でも、その2つを組み合わせたら?

ネットで検索してみた。
他人の俳句に写真をつけるような本は、時々ある。
でも、俳句も写真も自作、という本はなかなか見当たらなかった。

どうも、少数派、マイナーな世界のものであるらしい。

過去の俳人では、伊丹三樹彦・伊丹公子夫妻が、「写俳」と称して、写真と俳句を組み合わせる作品を発表していた。

もっと新しいところでは、森村誠一が、『写真俳句のすすめ』なんて本を出している。

写真家の世界では、浅井愼平が俳人として有名であるらしい。「Haikugraphy」(ハイクグラフィ、HaikuとPhotograpyを合わせた造語)の本として、最近は『哀しみを撃て』という本を出版していると聞いた。出版社は東京四季出版。俳句専門の出版社である。

『哀しみを撃て』は、京都の図書館には所蔵されていないようだった。
幸い、まだ絶版にはなっていない。
注文した。

届いた本は、B6判くらいの小さな、箱入りのハードカバーだった。
見返しはシンプルな白色。栞ひもも白色。
ページの紙は、写真集でよく使われる光沢のあるアート紙ではなく、マットな感じの紙。そこに、写真1枚と俳句1句をペアにして印刷している。
著者や編集者の「これは写真集でなく文芸書なんです」というメッセージが伝わってくるような造本だった。

そして、中の写真と俳句。

巴里までの夜間飛行や星撒いて
炎天やライカ覗けり闇運河
夏嵐カフカの机傷いくつ
  ―浅井愼平『哀しみを撃て』より

(本当は写真も紹介したいのだが、それをやると著作権を侵害することになる。すまぬ)

……こういうことだ、わたしがやりたいことは。

先を越された、という思いはなかった。
俳句も写真も、先方の方がずっと上。わたしとはレベルが違いすぎる。

この小さな本を教科書にして勉強させてもらおう、と思った。

☆…………☆…………☆

俳句雑誌のバックナンバーで写真俳句の特集があったので、読んでみた。

「『つきすぎ』はよくない」という意味のことが書かれていた。
「つきすぎ」は俳句の世界の用語である。
2つのものを組み合わせて詠む時に、ある種の意外性が求められる。梅に鴬、月に雁、露に涙なんていう組み合わせは素人でも簡単に連想できる。そういう句を批評する時、「この句は『つきすぎ』だね」と表現する。
写真と俳句にも、「つきすぎ」はよくないらしい。

意識してみたのがこの句である。

 俳句と写真は、まったく関係ない。
でも、組み合わせてみると……
故人が行ったのはこういう明るい場所なのかもしれない。何となくそんな気が……しませんか?

☆…………☆…………☆
  

とまあ、こんな感じで、わたしの俳句修行はのそのそと進んでいた。
しかし……
わたしの目の前には、新たな問題が立ちはだかるのであった……

その2に続く)


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