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残雪 [2]


 五歳だったある寒い冬の日、母親に連れられて道場の門をくぐった。裸足で踏む真冬の板の冷たさから、外とはまるで別世界なのだということを感じた。宗門の行と言われる武道。それを学ぶために通っていた様々な大人たちに混じって、ここで週二回の稽古を重ねた。
 
 そんな道場生の中には、イケさんと同い歳ほどの、地元にある暴走族の構成員たちがいた。その中のソーマさんと呼ばれるアフロヘアの男は、いつも道着の入った真っ赤なLARKの紙袋をぶら下げて、マフラー音が大きなセリカLBに乗って道場に通っていた。

 ソーマさんとその仲間たちが入門した日から、彼らが茶帯に昇級するまでの間、自分たちが彼らを教えることになった。暴走族の彼らが、自分よりいくつも年下の有段者に稽古をつけられることを嫌がるのではないかと思っていたのだが、それは杞憂だった。むしろその非日常を楽しんでいるようだった。弟のように扱ってくれる彼らに会うのは、兄のいない自分にとってはとても居心地がよかった。

 夜八時過ぎに稽古が終わると「稽古をつけてくれたお駄賃代わりだ」という名目で、インベーダーゲームに嵌っていた彼らに隣の雑居ビルにあるゲームセンターへ何度も連れて行かれていた。そのおかげで、そこが、夜は大人の不良の溜まり場、昼間はS中の奴らの溜まり場だということを知ることになるまでそう時間はかからなかった。



 見慣れた駅前の雑居ビル。

一階にスポーツ用具店、二階に雀荘と焼肉屋、三階に道場がテナントとして入るそのビルは、毎週のように何年も稽古に通っている場所だった。
 隣には、人ひとりが通れるくらいの隙間を隔てて、もうひとつ雑居ビルがある。そこに奴らの溜まり場があることは、前にソーマさんたちから聞いていた。


「奴らは絶対にいる」ダウンジャケットに隠れるように鉄パイプを忍ばせ、階段でゆっくり二階へと向かう。階段を上がった左手前にゲームセンターがあることも、右手前から奥へ喫茶店があることも、店内にあるトイレの場所も知っていた。知らないのは昼間の雰囲気だけだ。

 入口の扉から店内を伺う。スモークがかった薄紫のガラスと店内の暗さが、中の様子を掴むことを阻んでいた。出たとこ勝負しかない。人数が少ない場合と多い場合のシミュレーション。全員相手にする必要はない。顔を知っている奴らがいたら、そいつらがケンゴをぶちのめした奴だということにする。真っ先にそいつらを狙い撃ちして逃げればいい。

 意を決し静かに扉を引く。テーブル型のゲーム台が横四列縦六台ほど並ぶ薄暗い店内。客はまばらだった。入ってすぐの右テーブルで中年の大人が麻雀ゲームと戯れていた。その台の斜め後ろでインベーダーゲームに興じる若い男女。店長らしい中年の男は、夜なら入口の並びにある扉の中にいたはずだ。店長も店員らしき大人も見当たらない。ゲーム機を選ぶ振りをしながら気配を殺すようにゆっくり歩く。奥のトイレに近い位置のテーブルを見た。五人の中学生が二つのゲームテーブルを囲むように溜まっていた。

 背を向けている二人。その向かいに二人。右横に一人。声を上げながらゲームに熱中している五人に近づいていくのは思ったより簡単だった。誰も周りを気に留めていない。トイレに行く振りをして彼らが溜まっている横を通りながら顔を確認した。見覚えのある顔はトイレの扉に一番近いテーブルでレバーとボタンを操っていた。



 ケンゴのケジメは取らせてもらう。インベーダーゲームの画面にUFOが出現した刹那、鉄パイプを懐から取り出し、UFOを撃ち落そうと集中している奴の顔面を思い切り横薙ぎにした。

 手応えとともにテーブルの隅に積んであった百円玉が飛び散る。頬骨を抑えたままテーブルに突っ伏し呻いている。下手くそ。UFOを撃ち損じてるじゃねえか。

 続けざま、向かいで呆気にとられた奴の鎖骨に鉄パイプを振り下ろす。こうやって一発で仕留めんだよ。椅子から転げ落ち視界から消えていく。床に転がっている男の顔に覚えはなかった。

 「なにすんだてめえ」その横に座っていた奴が掴みかかろうと腰を上げた瞬間、狙いすまして顔面を蹴り飛ばす。なにってそりゃあ昨日のメリケンパンチの仕返しに決まってんじゃねえか。



「おいこのガキなにやってんだ」

 ゲームセンターの入口から数人の中学生が踊り込んできた。タイミング悪く仲間が現れやがったもんだ。ヒットアンドアウェイ。咄嗟にトイレの扉を開けその中へ身を躱した。

 個室に入り鍵をかける。多少時間が稼げればいい。横スライドの窓を開ける。窓の外は隣の道場がある雑居ビルの外壁。トイレの扉を蹴る音。上を見ると個室の壁に飛びついた奴の指が見えた。その指を鉄パイプで思い切り叩く。呻き声。

 鉄パイプを窓の外に放り出す。全開の窓へ足から身を乗り出しながら身体を捩り、両手を窓枠にかけてぶら下がる。二階から落ちたって死にはしない。タイミングを計り背中を隣のビルの外壁に預ける瞬間に手足を突っ張った。しっかり突っ張った身体は、ビルとビルの隙間に嵌っているかのように落ちなかった。突っ張る力を緩めそのままビルの隙間を滑り降りる。

 地上に降りて脱け出した窓を見上げた時、そこから見える鉛色の狭い空から雪が舞っていることに気づいた。あまりの美しい光景に一瞬自分が置かれた状況を忘れそうになる。

 窓からの怒号で我に返ると、駅と反対方向に走りながらスローモーションのように次々と舞う雪を手に取る。
 
 しかし、それは冷たい雪ではなかった。外壁との摩擦で破れたダウンジャケットの中の羽毛。興奮と緊張と母親への罪悪感を握りしめながら逃げた。十一歳、小五の冬のことだ。



* * *



「ケンゴにこんなとこで会うとはな」

「なんでおまえここにいんだよ」

「青森で仕事があってよ。終わって東京に帰るとこだよ」

「そうか…俺も仕事…仕事みたいなもんだ」



 自嘲するように笑ったケンゴの影のある表情が物悲しく映った。


 中学一年の夏に転校してから住むことになった片田舎は、街にも、人の気質にもどこか馴染めず、ここは自分がいる場所じゃないような気がしていた。偶に週末になると生まれ育った灰色の街へ遊びに帰っていたのは、その片田舎で出会った、幼稚で緩い奴らの群れに染まりたくなかったからかもしれない。

 刺激を求め度々その育った街に帰ると、決まって顔を合わせるのは幼馴染の兄弟分か限られた数人の友達だった。いくつもの裏切りというフィルターの底に残った本当の仲間、心許せる仲間は別に多くなくていい。

 彼らから旧知の知り合いの状況や噂話を聞く度に、自分がこの街とは質の違う牧歌的な世界へ隔離されている現実を思い知らされた。周囲との抗争の話、先輩たちの話、同級生たちの話。

 その中にはイケさんの話やケンゴの話もあった。イケさんは噂通りヤクザになっていた。地元の不良の間ではかなり顔が利く存在でとても怖れられていることは話の所々から窺い知れた。

 そしてケンゴは、母親が家を出ていってしまい、不在がちだった父との生活も荒れ、学校に顔を見せることも少なく他の中学のタチの悪い奴らとばかり連んでいると聞いた。


「ケンゴに会うの……十年振りくらいだな」

「おまえのことなんかすっかり忘れてたぜ」

「だろうな。俺もだ」


* * *


 中学二年の夏。灰色の街へ帰った日のことだ。夕方、隣駅との間にあるファミレスへ行くために兄弟分と一緒に歩いていた。商店街を抜け、最寄駅へと続くアプローチの下に差し掛かった時、目の前に四人の不良が集まっていた。


白い特攻服を着たケンゴ。傍にいる三人の連れは見知らぬ顔だ。



「久しぶりじゃん。こんなとこでなにやってんだよ」


 兄弟分を交えケンゴと立ち話を始めてすぐに気づいた。ケンゴの顔が腫れていた。「おい、その面どうした?」とケンゴに尋ねた時、派手なアロハシャツを着たケンゴの連れの男が、何故か突っかかってきた。



「あ?てめえらには関係ねえだろ?」



 そう言いながら左手で胸倉を掴み凄んでくる。考える前に身体が動いていた。

 胸倉を掴んでいる手首に右手を添えながら素早く半身になり、前に出た左手の甲で目を打つ。その左手で上から相手の手首を掴むと、右足を踏み込みながら素早く腕を捻り、自分の右肘を相手の左肘に落とすと同時に左足を引く。

 「方胸落(かたむなおとし)」相手の腕をS字に固め手首と肘関節を同時に極める技だ。

 関節を極められ激痛で腰砕けになり屈んだ男の顔面に、迷いなく左膝を叩き込む。相手に胸倉を掴ませたら負けたことがなかったのは、このコンビネーションを身体が覚えているからだ。


「誰に触ってんだおまえ」

 

 鼻血を出し地面に蹲る男に言い放つと、残りの連れが気色ばんだが、すかさずケンゴがそれを制した。



「あーあ。狂犬病に突っかかっちゃ駄目だって」



久しぶりにそう呼ばれた。転校してから無縁だった渾名。


「ケンゴ、こんな弱いの連れてっから顔腫らす羽目になってんじゃねえのか?」

「......なあ、おまえアキバって知ってんだろ?」

「一個上の?」

「あの馬鹿共と揉めて、それでよ......」 

 


 耳を疑った。ケンゴが簡単にやられるような相手じゃないはずだ。


「やり返しゃいいじゃん」

「面倒な柵(しがらみ)があって手出せねえんだよ」

「ふーん。それでいいのかよ」

「いいわけねえだろ……」


 ケンゴは苦虫を噛み潰し、胸ポケットから煙草を取り出した。煙草を口元へ運ぶ手の甲に、痛々しい瘡蓋がいくつも十字に並んでいた。


「根性焼きまでされたのか」


 地面で鼻血を出している男が呟いた。
「ケンゴさんがやられたのは俺のせいなんだよ」


……仲間を庇ってやられたのか、ケンゴ。


 一部始終を横で見ていた兄弟分が口を開いた。

「アキバたちが連んでる連中はほんとタチ悪くてよ。二個上のチンピラ連中とも連んでて、バックもいろいろ面倒だから、あいつらには関りたくないってここいらの奴らはみんな避けてんだよ」

「ふーん。ここいらもいろいろ厄介なことになってんだな。あっくん、ぼちぼち飯食いに行こうぜ。ケンゴ、お前らもファミレス行く?」

「いや……これから……こいつらと用があるんだ」


* * *



 窓口の上に掛かっている古い時計。果たして正確な時間を刻んでいるのか不安になるような佇まいだ。

 時間は誰にでも平等に与えられているという。しかし、遡ることのできる過去の記憶や、時間の流れの感じ方は人それぞれ違う。どこかで壊れ、自分の時間が止まったまま、止まっている時計に気づかない振りをしながら、それを抱えて、ただ、生きている人もいる。


「で、おまえの面見んの、いつ以来だって」

「中二の夏以来じゃねえか?ケンゴが連れてた舎弟をぶっ飛ばした時」

「ああ……それで思い出した!」

「なにを」

「確かめたかったことがあんだよ」


(続)



あそぶかねのために使います