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「北匈奴の軌跡 草原の疾風」第一章(2)


 
 探検隊の一行は、荷物満載の大きな車に乗って進んだ。ジュアルとリンは交代で二頭引きの馬車を馭した。替え馬四頭が後ろに続いた。緊急事態の際、各人が馬で移動できるようにするためである。
 道中、ジュアルらは時に先導し、時に殿軍しんがりを務めた。旅は順調に進んだ。
 男三人は、ジュアルらに対して冷たくもなければ、温かくもなかった。要するにいかなる関心も示さなかった。
 女の隊員エリーだけが、何かとジュアルとリンに気を使った。ジュアルらに一行の言葉を教えたのもエリーである。ジュアルらは、そのお礼に食事づくりをはじめ、エリーの仕事を手伝った。
 休憩や食事のときには、 話がはずむ。 一行は、「フン」 なる語をさかんに発した。ジュアルには何のことか見当もつかなかった。
 仕事の要領を覚えたジュアルらは、早め早めに準備を調え、ブラウン教授のいかめしい顔を ほころ ばせた。
 一行はときおり停止し、古い地図と現況とを突き合わせた。たまには素掘りして地中を調べることもあった。と同時に、双眼鏡を取り出して、三六〇度の全景を丹念に観察したりもした。
「いったい何を探しているの」
 ジュアルは、習い覚えた単語を並べてエリーにたずねた。
「墓よ。ずっと昔の王族の墓をね」
エ リーは、解るかなといったふうな顔つきで答えた。
「何か目印があるといいのに」と、リン。
「そうなのよ。ところが、このへんには何にもないから困っているの。ある時代では、巨大な墳墓を作るし、また別の時代では、痕跡を隠してしまう。わたしたちは、あとの方を追いかけているから大変なのよね」
 エリーは地面に墳墓の絵を描き、それを一気に消してみせた。何もかも地下に埋まっているのだと。
「それで、掘ったりしているんだね」と、ジュアル。
「ええ。そうなの。この砂漠の下のどこに何が埋まっているのかは、だれにも判らない。でも、手当たり次第に掘っているわけじゃないの。大昔の高い文化の痕跡とぶつかってもよさそうな手がかりはあるのよ」
「それがあの古い地図なんだね」
 ジュアルは目を かがや かせた。
「そう。でもね、縮尺がちっとも合わないし、時間は経つしで、プロフェッサー・ブラウンはお冠よ」
 エリーは苦笑した。
「でも、地上には何の手がかりもないんだったら、どうして双眼鏡で眺め回すの」ジュアルの質問はなかなか鋭い。
「あれの目的はまた別にあるのだけど、とても見つかるとは思えないわ。見渡す限り、砂と土と石ばかりだもの」
 エリーは詳しい説明を避け、ジュアルの目を凝視みつめた。まるで、あなたにも関わりがあるのよとでも言いたそうに。
 探検隊一行にとり、収穫はほとんどなかった。そのうち疲れが出てきて、だれもが不機嫌になった。車のエンジンがかかりにくいというおまけまでついて、みながため息をついた。
「ジム、おまえの番だ」
「車なら、ジャック、おまえさんの方が詳しい。エンジンがおまえさんを呼んでいる」
 男の隊員二人が譲り合った。ジムは縦にも横にも大きな男で肥満している。ジャックはジムよりもなお背が高く、これも肉がつき始めている。
二 人はボンネットを開け、エンジンルームを覗き込んだ。ああだ、こうだと言い合っていたが、結局、スパークプラグが犯人だということになった。 ジャックがプラグを抜き取り、綺麗に拭き取った。エンジンは一発でかかった。ジャックは、どんなものだといった表情かおでエリーを見た。
エリーは、ジャックのみならずジムにも等分に笑顔を向けて拍手したあと、ジュアルに片目を瞑って見せた。こういうときは、バランスが大事なのよと。
 そこまでは、まだよかった。が、そのあと、車は何かの擦れる嫌な音を立てはじめ、二日ののち、歯車のみ合う大きな音とともに動かなくなった。
 ジャックは故障個所を調べて、
「プロフェッサー・ブラウン、部品を換えないことにはどうにもなりません」
 と、あっさり匙を投げた。
 それやこれやで、エリーが体調を崩した。腹痛を訴え、ひどい顔色になった。しばらく横になって休むうちに、激しい嘔吐と下痢に見舞われた。
 ブラウン教授はいろいろな薬を試したが、効き目はない。リンは、呻き声をあげるエリーの世話にかかりきりになった。
とどまるべきか引き返すべきか。君たちはどう思う」
 ブラウン教授は迷った。この探検行を実現させるまでの苦労は、並大抵のものではなかった、と顔に描いてある。
「プロフェッサー・ブラウン、思い惑っている場合ではないですよ。できるだけ早くエリーを医者に診せるべきです」
 ジムが言った。
「分かっているとも。しかし、その医者というのは、どこにいるのかね。ここは砂漠のど真ん中だ」
 ブラウン教授は、苛立った声で応じた。
「ジュアル、病院なるものがこの地にあるのだろうか」
 ジャックが訊ねた。ジュアルは近くの市の医師の名を告げた。もっと大きな都市でなければ、病院はないとも。
「その医師は信用できるかね」ジャックがたたみかける。
「むろんです」
 氏族の者たちのみなが、その医師に診てもらっている。尤も、医師は一人しかいなかったが。
「ここから馬車でどれくらいかかる」
 と、ジム。
「四日。いくら急いでも三日… … 」
「そんなに遠いのか。その間、エリーの症状が悪化したらどうなる」
 ブラウン教授は頭を抱え込んだ。
「プロフェッサー・ブラウン、いまは行動のときです」
 ジムの声が大きくなった。
「そうだな」
 ついに、ブラウン教授は、引き返すことにはらを決めた。二年にわたって準備してきた探検行が挫折へと傾いた瞬間であった。
 動かぬ車を捨てて、男三人が馬に乗り、ジュアルとリンが馬車でエリーと水と荷物を運ぶ。
( もっと急いだ方がいいのに)
 ジュアルは不満であった。口にはしなかったが、ほんとうは荷物も男三人も置き去りにしたかったのである。
 ところが、帰路の半日も行かぬうちに、ジュアルの考えが実行されることになった。男三人が慣れない乗馬に音を上げ、さらにエリーが高熱を発したからで、息づかいも格段に苦しそうになった。
「プロフェッサー・ブラウン、とりあえず荷物をここに置き、馬車だけ先行させましょう」
 ジムが、蒼くなって言った。
「うむ。だが、だれがエリーをそこまで連れてゆくのだ。われらは道を知らぬ」
「ジュアルの案内があれば、わたしたちが…… 」
 ジムが主張し、ジャックも応じた。
「君たちは、馬の扱い方を知らない。ジュアルに馭者を任せるなら、君たちの付き添いは邪魔でしかない。巨漢の君たちが加われば、四日の行程が五日にも六日にもなる」
 ブラウン教授は、ジュアルを慈しむかのようにながら、
「ジュアル、君たちだけでエリーを連れていけるだろうか」と、訊いた。ジュアルは頷いた。
「大変失礼なことを言うようだが、君たちは事の重大さを理解しているのだろうね」
 ブラウン教授は、必死の面持ちである。ジュアルはまた頷いた。
「ジュアル、じつは、エリーは私の娘なのだ。それもたった一人の子だ。私は、娘の命を君たちに託さねばならない。君たちが失敗したからといって、責めたりはしない。が、願わくは必ずや行き着いてほしい」
 ブラウン教授の目に涕がかんでいた。
「プロフェッサー・ブラウン、馬を一頭だけ残します。替え馬は多い方がいいのです」
 ジュアルは答えると、リンに目顔で合図した。ジュアルとリンは、電光石火の素早さでその場を離れた。
 

 
 エリーは、たえず震えていた。毛布を何枚も重ねても無駄であった。看病するリンの手を握り、絶えず譫言うわごとを漏らした。
 ジュアルは、真っ直ぐに東を目指した。リンはエリーに水を飲ませ、エリーの口に無理にも食べ物を捩じ込んだ。
 馬が疲れをみせると、すぐに替えた。ジュアルは気を失った状態のエリーを見て、肝を冷やした。死なせてはならない。が、草原では生と死は、いつも隣り合わせである。
 ジュアルは、すでに親しい人々の死に何度も遭っていた。草原においては、絶対に確実なことは、千に一つもなかった。
 幸い、水と食べ物はあった。馬がたおれない程度の速度で、されど急ぎに急いだ。ジュアルがエリーの横で眠るとき、リンが手綱を執った。
「ほんとに、いつも二人で一人前ね」
 リンは呟いた。
 寒暖の差に慣れているとはいえ、夜の凍りつくような寒さはこたえる。三人が抱き合って眠ることもあった。
 ジュアルが朧月ろうげつの光のもと、黒々とした砂漠の道なき道を静かに馬車を進めると、リンは曙光のもと、草原の緑の絨毯を目指して馬車を駆った。二人が交互に馭すること二日半。
 ( 臭いが変わった。人里が近い)
 ジュアルの胸が高鳴った。
 意識を失ったままのエリーの頬が、火のようにあかい。

 ジュアルは急いだ。二日二晩、三、四時間ほどしか眠っていない。黄昏たそがれ時、市の医院に駆け込んだ。四日の道程を二日半で乗り切った。
 エリーを医師に引き渡すと、ジュアルとリンは精根尽き果て、傍らのベンチに横になった。すぐにも眠り込んだ。
 目が覚めると、そばにリンが眠り、依然として黄昏れていた。
( 眠ったのはほんのわずかだったのだな)
 と、思った。が、そうではなかった。二十四時間の熟睡であった。病室で、エリーはあらゆる器具を装填されて眠っていた。
「どうやら危機は脱したようですよ。もう少し遅かったら危なかったですね」
 若い医師は、ジュアルの肩をたたいてその労苦を褒めた。
 ジュアルとリンは、それからずっと、かつてリンがジュアルにそうしたように、エリーにつきっきりとなり、看病ですごした。
 エリーは覚醒すると周りを見回し、ジュアルの名を呼んだ。
「あなたは、ついにやり遂げたのね」
 そう言って微笑んだ。
 ジュアルとリンは、市内で車の部品を買い、帰路を走った。途中、回り道すればディガルに会えたが、そうしなかった。
ブラウン教授は、遠くから帰還したジュアルとリンの姿を見ると、必死の形相で駆け寄った。ジュアルの報告を聞くと、ジュアルとリンを抱きしめて なみだ にむせんだ。
 

 
 ジュアルとリンは、ブラウン教授の帰国に同行することになった。
「英国で学んだのち、この地に帰れば、活躍の場が増えることは間違いないでしょう。米ソの冷戦にかかわらず、東側でも英語を学ぶ人は増え続けています」
 ブラウン教授のディガルに対する申し出は、エリーの命を救ったジュアルらへの恩返しであった。
 ディガルは渋った。ブラウン教授の言うことは分かるが、ジュアルとリンを手放すのは、身を切られるよりもつらいことであった。なぜリンもかと言えば、リンが、ジュアルと離ればなれになることを諾するはずはなかったからである。
「ジュアル、行くか」
「行く」
「リンを守れるか」
「守る」
「いずれ、リンを妻とするか」
「する」
「間違いないな」
「間違いない」
 ディガルのジュアルを見るのなかに、限りのない惜別の情が宿っていた。
 ジュアルの命を救ったのがディガルなら、一人前に育ててくれたのもディガルである。ジュアルにとっても、ディガルとの別れはつらかった。
( でも、自分がどこから来たのか判るかもしれない… … )
 ジュアルはそう考えて、おのれの望むところに従った。しかしながら、リンを父親から引き離すことには心が痛んだ。リンも父親との別れを悲しみ、出発前の数日は悄然としていた。
 ジュアルとリンは、ブラウン教授とともにその地を離れた。ふたりは、見送るディガルの姿が見えなくなるまで手を振った。
 ディガルは、 なみだを一滴たりとも見せなかった。 ジュアルは、 ディガルの毅然とした姿にいまさらながら父を感じた。
 思えば、リンの母はすでに亡く、ジュアル自身は父母の像を目裏に浮かべることもかなわないのである。
 英国到着後、ジュアルとリンは、何もかもが異なる外国暮らしにすぐに慣れた。英語に習熟すると、俄然、学力を伸ばした。早く帰りたいの一心が、夜を日に継いでの学業となった。
( 英語を少ししか話せなかったこの子たちが、ここまでやれたか)
 二人の成績はブラウン教授を驚嘆させた。
 大学へ進学するにあたって、ジュアルとリンの専攻がはじめて分かれた。分かれたと言っても、東からのアプローチと西からのそれの違いであって、ジュアルは、東洋史においてディガルたちの先祖がどこから来て、何をしたのかの研究を志し、リンは、西洋史においてそれをしたいとするのであった。
 二人は入学すると、それぞれの道を歩み始めた。が、いずれにせよ、卒業してからの帰郷を目標に、学業を専一にし、あとは学費と生活費を生み出すための労働でつましく暮らした。
 いまでは、ジュアルは、砂漠でブラウン教授とジムやジャックが「フン」と言っていたのが、フン族を指し、同教授が、フンの前身を中国の前漢および後漢を悩ませた匈奴きょうどであるとする説に立つことを知っている。
 ブラウン教授は、その方面の有力な研究者であった。ジムとジャックはブラウンの弟子であり、エリーはジムの肥満に眉根を寄せながらも、後年、ジムを伴侶に選んだ。
 三年経って、ジュアルに見通しがついたころ、またしても転機が訪れた。
一夕、ブラウン教授が大勢の弟子たちを食事に招いた。ジュアルとリンはエリーを手伝って、裏方を一手に引き受けた。
 なかに、ジュアルやリンと同じような黒髪の女の子がいた。流 暢りゅうちょうな英語を話したが、何かの折りに自国語が飛び出した。
 そのとき、ジュアルをずっと苦しめてきた忘却の扉が開かれた。流れを塞き止めていた巨岩が崩れ落ち、激流が一気に流れ下った。
─ ─ わたしたちは、助からないのね。
─ ─ おお、神さま。せめて、この子だけでもお救いください。母の祈りが耳元でした。母の温もりを肌に感じた。
( そうだったのか)
 ジュアルの目から涙が零れ落ちた。
 黒髪の女の子は東洋の島国から来たと言った。ジュアルは卒業後、母の故国の大学の大学院へ進むことにした。
 その国の人は、ジュアルが苦心して読み進める中国古代史書をその国の言葉で読むという。されど、文字はともかく、中国語と日本語はまったく異なる言語であった。
 新しい言葉を一から習い覚えるのは至難であるが、ジュアルは日本語の断片を思い出しはじめていた。それゆえ、必要ならば日本語に挑戦してもよいと意を決した。なぜかは定かでないが、ジュアルには異言語習得の才能があった。
 リンはジュアルと行を共にした。幼いころから二人はいつも一緒であった。ジュアルが日本で学ぶのならば、自分もと考えた。リンもまた大学院へ進むことに決めた。外国でも、二人で一人前であった。


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