37-ファンについて考えてみようじゃないか。
こんばんは。
今日の雑談と導入。
僕は色々なことに期待をしすぎる癖がある。
この価格帯のお店であればこれぐらいの接客はしてくれるだろうとか、今までこのサービスはやってくれていたから今日もやってくれるだろうとか、この人の業務レベルであればこれぐらいの仕事は難なく対応できるだろうとか。
そういった期待は悉く外れる。そういった期待外れの状況になると悲しいかな僕も人間なので、イラっときてしまうことがある。勿論、期待をしすぎてごめんなさいという気持ちもあるのだが、どうにかならなかったの?と思う気持ちも出てくる。
明石家さんまさんが以前、テレビのロングインタビューで「腹は立たないのか」という質問にこう答えていた。
多分、僕はどこか上から目線で、サービスを受けるのが当たり前と思っていたり、期待に応えられるように動くのは当たり前という自分の価値観を押し付けてしまっていたりしたんだろう。だから期待が外れると腹が立つ。
僕は弱い人間だから、サービスを受けるのは当たり前じゃなくて善意だということや自分の考えが絶対じゃなくて相手のことを考えて発言しないといけないということを頭に入れても、時が過ぎれば元に戻ってしまうんだろう。だけど折に触れて自分を振り返らないと、年をとったときに周りに誰もいない、どうしようもない偏屈なジジイになってしまう。
そう考えると、僕は気づけただけマシなのかも。自分を律することで周りに愛される人でありたい。
閑話休題。
今日はファンという存在について考えてみようと思う。
この前段と本題がどうリンクしてくるのかは、読み進めてのお楽しみ。
ファン。
僕は色んなもののファンになっている。
アマプラというサービスのファンでもあり、MONKEY MAJIKというアーティストのファンでもあり、LogicoolやAppleというメーカーのファンでもある。加えて、仕事で関わりのある取引先の方や今まで出会ってきた尊敬できる人たちのファンでもある。
誰もが誰かのファンという存在である現代。
今日、このテーマで毎日日記を書こうと思ったのには明確な理由がある。Xのトレンドにも上がったのでご存じの方も多いと思うが、ある芸人さんのファンの方が問題行動を起こしたようなのだ。該当のnoteなんかも読んだうえで、「ファン」という抽象的な存在について考えて、僕なりに答えを出してみたいと思う。
問題の人。
この人が、ラニーノーズというバンドもやる若手お笑いコンビに対して熱い想いを吐露したことでイタいファン認定されている方である。
公開されている記事をすべて読んでみたが、正直、偏見に溢れていて途中で気分が悪くなるレベルだった。手紙や手帳を小道具として使うネタであれば手元にネタが書いてあるから覚えるのを諦めたんだなとか、ライブであれば常に新ネタを作って披露するのが当たり前とか、チケットを買ってライブに行っているわけだからつまらないと思ったらつまらないと言うし、それを芸人は取り入れるかは別として受け止めるべきだとか。
読み進めると、自分がこうなってしまったのは社会の仕組みのせいだとか、周りに助けてくれる人がいなかったからだという主張も含まれている。全面的に否定はできないなとも思うのだが、他責思考が凄いなという感想。
まだ読んだことがない人は、気分が落ち込んでいるときに読むのはオススメできないので、元気ではあるんだけど時間があって暇だというときに読んでみるといい。
ファンに求められる姿勢って?
M-1で準々決勝に進出したハイツ友の会という女性コンビが先日、解散した。その際の解散コメントに「私たちを応援してくださる方は女性が多くいてくださったように思います。とても嬉しかったです。女性の皆さんありがとうございました。本当に"お笑い"が好きな男性もありがとうございました」という物議を醸すような一言が書かれていた。多分、お笑いを楽しみにしているファンではなく、所謂”顔ファン”に対しての一言だったのではないかと思う。
どちらのケースも芸人さんに対して、何らかの期待をしているんだと思う。芸人さんに認知してほしい、あわよくば仲良くなりたいとか。俗にいう"リアコ(リアルに恋している勢)"というのが近いかもしれない。
そのクリエイターさん(音楽とか美術だけじゃなくて芸人さんとかも含む)の応援の仕方はたくさんあると思う。ただ、僕個人の考えでいけば、ファンに求められる姿勢というのは「次回作も見たい」という点に始まって終わることだと思う。
次回作が見たいからこそ、クリエイターさんの精神安定を崩すような「つまらない」とか「あの人は終わった」というネガティブなことは本人が望んでいない限り言わないし、また次の作品を作ろうと思ってくれるように物理的な援助としてグッズを購入したり差し入れを送ったりする。
クリエイターさんを応援しようと思ったきっかけは何でもいいと思う。「顔が好き」でも「たまたま見て面白かった」でも「なぜか引き込まれた」でも。だけどその人のことを応援したいというなら、クリエイターさんの嫌がることや迷惑になることだけは決してやっちゃダメ。
僕から言わせれば、誰が見ているかもわからないようなSNSでネガティブなことを吹聴する人、自分の期待する姿じゃないとキレる人、個人の勝手な認識・解釈でクリエイターさんのプライベートを語る人は、ファンとは呼べない。
もし、あなたの発言一つでクリエイターさんが創作活動をやめたらどう責任をとるんだよ。次回作を見たいと思って応援しているファンにどう謝るんだよ。
多分だけど、僕がファンじゃないと定義している人たちは、何かと他の理由とこじつけて謝ることはしないんだろう。こう言っていたのは自分だけじゃなくて他の人も言っていたとか、過去にこのクリエイターはこんなことを言っていたから自分がこう言うのも仕方ないでしょとか。
もしこういう人がいたら、「一人でわーわー言ってて。責任転嫁をせずに自分の過ちを認めたら、もう今後は近づいてこないでください」と思ってしまうのは僕だけなのかな。
僕なりの結論。
クリエイターさん本人を応援するのもいいけど、クリエイターさんが出してきた作品を応援する。
これが僕なりに考えた結論。人物と成果物を切り離して評価するってイメージかな。考えれば当たり前なんだけど、クリエイターさんが結婚したとか交際相手が発覚したとかで、その人が作ってきたものの価値や評価が変動することはない。
レアケースだと思うが、こんなケースは考えられるかもしれない。
ある女性アイドルがリリースした曲を今までいいと思っていたけど、交際が週刊誌にすっぱ抜かれて、彼氏のことを想定して歌ったと思うと反吐が出るみたいな。
でもこういったことって、曲を聴いていた人がアイドルに対して恋愛感情を持っていた、どこかワンチャンないかと考えていたからこその感情だと思う。別の面から考えてみれば、そのアイドルが彼氏のことを思って歌っていたからこそ、強いメッセージ性が表現されたのかもしれないし。
クリエイターさんと創作物は簡単には切り離せないから簡単に割り切れるものでもないと認識はしているけど、僕ならこんな考えでファンとしての応援を続けていくだろう。
今日の最後。
ファン一人ひとりにも色々なバックボーンがあるし、画一的な考えを押し付けるのはよくない。だけど、クリエイターさんを困らせるようなことをしている人をファンとは呼びたくないし、ファンという一括りにされたくもない。
んー。難しいな。
最後に。
今日は「ファン」について考えてみました。
どうもスッキリはしないけど、自分の思っていることとか考えは出せたかな。実に難しい問題です。みんながそれぞれ楽しく応援できるようになるにはどうしたらいいんだろう。これが解決すれば世界から争いごとはなくなるかもしれない。ヤバっ。またテーマがデカくなっていきそう。
今日はおわり。
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