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言葉の貯金箱

いつものようにtwitterをふらついていたときに目に入った文言に『みんな苦労してきたよねぇ…』と仲間を見つけてホッと胸をなでおろしている。

読書感想文、そう、それはASDにとっての鬼門。
読書そのものは面白い、面白い。気に入った本(というか漫画は)10回以上読み返すのは常だし、何だったらヘルシングは3回全巻を買った。ラピュタは金ロー放送版を観すぎたせいでDVDで見ても『あっ、そろそろCM入るわ』といそいそとトイレに行こうとするくらいだ。

だが感想文となると話は違う。

今でこそ、ラピュタのドーラが如何に素晴らしいか、そして強すぎる母を持つ息子がイマイチ大成しそうにない雰囲気を様々な烈女を例に挙げられそうな予感もするが、小学生当時の私には『んーと、おもしろかった!!!!』以上の言葉はひねり出せなかった。そんなレベルの人間に800字以上の感想を求める読書感想文は『んーと、ムリ!!!!』の感想しかないのだ。

第一、文章の書き方も教えずに『さぁ読書感想文を書きましょう😊』というのはあまりにも優しくない。調理法もレシピも覚束ない人間に対して『今から冷蔵庫にあるものでテキトーに2,3品作っといて💖』並みの暴挙である。

こんな体たらくなため、中学校でも作文の時間はただただ椅子にしがみつくだけの苦行だったし、高校ではもちろん夏休み明け『家に忘れました』と言い張る術を覚えた。そして、大学はレポートを書けず辞めた。(…卒論、必修だったしね…、書けるわけないじゃん…もう40枚白紙で提出して『あなたのためのレポート用紙、なマイブック的なノリで乗り切るしかないじゃん…書けないし…』)

だから駄文を多少はかけるようになったのは30歳近くになってからだ。読書自体は好きで、納豆の成分表も手持ち無沙汰でついでに読んでみるような生き物のため、言葉自体はせっせと脳みそに詰め込んできた。ただ、それをどう構築すれば良いのかがさっぱり分からなかったのだ。

私にとって文章を作る行為は積み木(言葉)を積み上げていく感覚に近い。積み方や目指す完成図がないと途端にどうすればいいのか途方に暮れるのだ。

ましてやASDの完璧主義と相まって『ワシが作りたいのはこんな駄文じゃなぁい!!!』となるので2行もかかないうちに消しゴムで全てを消し、を繰り返すうちに原稿用紙が破れて『やーめた』となっていた。

多少マシになったとはいえ今でもnoteでつれづれ綴っている内容にオチがあるとは言えない。けども、失敗し続けても書いてみて少しは自身の胸のうちを表現できるようになっている、とは思っている。

ASD気質を持つ人間は冬眠前のリスのごとく何かをため続ける。
そうして安心感を得ようとしているのだろう。自信のなさも相まってひたすらにため続けるかもしれないが、君たちの収集癖は常人をはるかに上回っている。それを表へ出すことへの恐れはあるかもしれないが、もしかしたらあなたの知識や経験を待っている人はいるかもしれない。

怖くともそろりそろりと出し続ける先に突破口があるのかもしれない。
『何言ってんのかわかんねぇ』と多くの人に言われても大丈夫だ。
言葉にし続けるうちにあなたの伝える技術は洗練されていくから。

いいかい シナリオ書き上げたらすぐにキックするべきだ
見様見真似でいいからやってみな
それだけできた これだけできた 
何より俺だけってワケじゃなかったからここまでできた

『Life Story feat. ILL-BOSSTINO』/ZORN


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