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私たちは人間だ

わたしはシングルマザーである。期待と不安に胸を膨らませて始めた結婚生活は暴力による支配と混乱へと変化し、なす術もなく逃げ出して終わった。

元配偶者の所業について言いたいことは山ほどあるが本稿が呪いの巻物と化すため割愛する。ただ、ようやく一息つける場所にたどり着いてから『彼にとっての家族とはアクセサリーにすぎなかったのだろう』と考えがいたるようになった。

元配偶者は根気よく腰を据えて物事に取り組むタイプではなかった。TVCMに毒されたかのように『このアイテムを手に入れればHAPPYになれる!』と妄信しているように見えた。恐らく家族も数多あるアイテムのひとつだったのだ。

だが、人間関係は一筋縄ではいかない。ましてや子を持つとその難易度は段違いだ。乳児はこちらの都合などお構いなしに泣く。大体がご飯、オムツ、抱っこの三択ではあるが、そのすべてを終えても泣くときは泣く。そして泣き声はデカい。想像をはるかに超えてデカい。寝ているときも『生きてんのかな?』と心配になるし、大人一人でゆっくりトイレに入ることもままならない(何せ一緒にトイレに入ってくるのだ、ここを母親学級で教えてほしかった)。

何を言いたいかというと、家族という存在はCMで流れてくるような魅力的な商品でもなく、しち面倒くさいできごとの連続である、ということだ。そして子をなしたのであれば、飽きたとしても投げ捨てるわけにはいかない。この日々のごたごたを乗り越えていった先に生まれるのが『絆』と呼ばれるものなのだ。

それが彼には理解できなかった。『人生ゲーム』の駒のごとく家族をとらえていたのだろう。『俺をHAPPYにするアイテムなのに思い通りに動かない』という焦りが暴力という形として発露したのだと、今は感じている。(昔はブラウン管テレビの映りが悪くなったら叩きましたね、あんな感じですね)

きっとその感覚は実父にもあったように思う。団塊世代の父にとって『結婚して一人前』という圧力は今よりもっと強かっただろうし、何よりも出世に響く。父はASD傾向を多分に持っているように見えるため、積極的に恋愛をするタイプではない。現代に生まれていたら独身で終わったような人間である。圧力に流されるまま見合いをし、結婚し、子をもうけた。が、さほど子には興味を持たず企業戦士として仕事にまい進した。その結果、家庭は無関心な父と過干渉な母による典型的なニート製造工場と化したわけだ。

子どものころ、私にとって父は謎の存在だった。積極的に忌み嫌う存在ではなく、ただただ話しかけにくい相手。中学生のころ、他の女子たちが『クソジジイ超ムカつく(笑)』と話している感覚がわからないくらいには謎の存在だった。ようやく話せるようになったのは母の死後だ。同じ家族に属しながらも他人だった。

それは非常にさみしい体験だった。家族というカタチをしておきながら、内情はバラバラだったから。マイホームという容れ物はあれどハリボテという空虚感。両親もきっと必死だったとは思う。地方から上京して、一端のナニカになろう、と遮二無二働いたのだとは理解する。日々必死に働くなか、余暇として味わうTVでは『このカタチが正解!!それ以外は異常!!』と常に高すぎる理想を押しつけてくる。一生懸命に正解を追い求めた結果、家族も自分さえもコマとしか見られなくなったことは、とても悲しい結末である。

多くの人にインターネットの門戸が開かれて、『あるべき姿なんてないんじゃね?』という感覚が強まってきているような幻想を抱いている。各個人が人間として生きられる(それは支配する側でさえも)ようになるのなら、私が味わい、間違えてしまった失敗を止められるようになる、と微かな希望を持っている。

あたりまえすぎる、『私たちは人間だ』という感覚を皆が取り戻せるよう、一生懸命に鋳型に嵌まろうとする必要など何ひとつない、と我に返れるよう、ただただ願っている。潮目は変わっているはずだから。

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