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書家・金澤翔子さん

染色体の突然変異が原因で起こる症候群の②として、書家の金澤翔子さんについてお話していきます


1.金澤翔子さんの書について

初めて翔子さんの書を見たとき、その迫力に圧倒されました。まるで、文字に感情が宿っているかのように感じられたのも印象に残っています。翔子さんがダウン症候群であることを知ったのは、後になってからです。どのように書を学んでこられたのか、そして彼女の人生にも関心を持ちました。

福島県いわき市にある金澤翔子美術館にも足を運びました。趣のある外観、内部も彼女の大作が映えるつくりになっていて、とても素敵でした。美術館の外観の写真がこちらです。

金澤翔子美術館

この美術館の開設には翔子さんの東日本大震災の復興への願いが込められているといいます。作品を存分に味わいたいという方はぜひ足を運んでみてください。

2.翔子さんの人生を知ることができる本

翔子さんと母、泰子さんの歩んだ人生が描かれています。これほどまでに人を感動させる書の魅力の裏には、はかり知れない苦労と努力があったのだと、身をもって知ることができます。

希望の筆 ダウン症の書家・金澤翔子物語

佼成出版HPより

著者:丘 修三
出版社:佼成出版

翔子さんは、母、泰子さんが自宅で開いている書道教室でお手伝いをしていました。ある日、泰子さんは生徒さんから、翔子さんの年齢を聞かれます。そこで年齢が子どもたちよりずいぶん上のこと、ダウン症のために発達が遅れているのだと教えました。子どもたちは、それでも書道は、私たちよりずっとじょうずよね、と言ったそうです。そこで、泰子さんは書道は神様が翔子に下さった宝物で、みんな何か一つ宝物をいただいて生まれてくるのだと、皆に教えたといいます。

泰子さんは出産後、大きな不安を感じたそうです。それでも日が経つうちに、我が子の愛らしさに心奪われる瞬間が増えていったといいます。そして「何の疑いもなく自分に頼り切っている、この小さきもの」の信頼にこたえなければ、という思いが、心の中で次第に膨らんでいったとも。

翔子さんが5歳になったとき、母は本格的に書道を教え始めます。翔子さんも書が楽しくて仕方ないといった様子でした。

翔子さんが20歳になった年に開かれた初めての展覧会で、人々は障がいのある方が書いたからではなく、作品そのものに感動したと語ったそうです。その後、翔子さんの書展を開きたいとの声があちこちからあがり、現在に至ります。

3.翔子さんの人生と書の魅力を知ることができる映画

共に生きる

6月2日から全国公開になり、すでに上映を終えた劇場が多いのですが、こちらは、映像でしか感じとることのできない、彼女が作品に込めた魂、純粋な思い感じることができます。特に席上揮毫の場面での彼女の力強く、躍動感にあふれた姿は必見です。

翔子さんは、学校で障害児学級に行くことをすすめられたことを理由に、学校にいけなくなった時期があり、その時、親子が始めたのが般若心経を書くということだったといいます。難しい漢字を毎日書き続けることは、翔子さんにとってとても大変なことだったようで、泣きながら拒否したこともあったそうですが、泰子さんはあきらめませんでした。これが、泰子さんの言う「涙の般若心経」という作品です。

翔子さんはその後も10年に一度、般若心経を書き続け、30歳の時に書いた作品は静岡県浜松市の龍雲寺に収められています。この「世界一大きな般若心経」を見るため、今も来場者が絶えないといわれています。

各地で開かれる書展には、翔子さんと同じダウン症をもって生まれた子どもを育てる父母も多く来場しています。子育ての大変さの中で、泰子さんとの話の中で励ましを受け、もしかしたら、翔子さんの作品に子どもたちの将来の希望を見出だしているのかもしれません。映画に登場する赤ちゃんを見て、泰子さんの言うところの神様からの宝物がどの子にも与えられている、という言葉が今一度思い起こされました。


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