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それもこれも全てはサッカーに繋がっている/後藤京介選手(東京武蔵野ユナイテッドFC)

人生には思いも寄らないことが往々にして起きるものだが、後藤京介にアルコールを作ってもらう日が来るとは、さすがに思っていなかった。毎年恒例となっているロングインタビューで、たっぷり1時間あまり語ってもらった後のことである。東京武蔵野ユナイテッドで10番を背負った今シーズン、ピッチでは衰え知らずの運動量で攻守に活躍し、実業家としても念願の飲食店をオープンするという激動の1年だった。シーズンを終えて、全てはサッカーで繋がっていたという今年の様々な出来事を、彼の魅力でもある裏表のない語り口でじっくり話してもらった。(2023年12月8日収録)

「武蔵野の10番」に

前回のロングインタビューは2022年11月、シーズン終盤だった。その当時はまだ、2021年から続いていた東京ユナイテッドとの提携が解消されるという情報は全く公開されておらず、後藤も当然、このチームでJリーグを目指して戦うつもりだったはずだ。

しかし急転直下、クラブは新体制となりJリーグへの参入を断念することになった。このころ、後藤と連絡をとった際に「このまま引退も考えている」と伝えられ、聞き手としては非常に動揺したことを覚えている。

「クラブの体制が変わるという話は、去年の12月に僕たちには本当に急に知らされたことでした。残るか残らないかをすぐに決めてくれと言われ、まあでもそんなこと納得いくわけもないですし、クラブとも「そんなにすぐは決められない」と話しました。正直、去年のシーズンが終わった段階で何チームかオファーはもらっていましたが、その時点では来年もここでJリーグを目指そうと決めて、全て断ってしまっていた後でした。そこで突然こういう話で、それはもう複雑な気持ちでしたよね。なんで?と。クラブ内では前から決まっていた話だったということですし、もっと早く言ってくれても良かったんじゃないかと。それからいろいろ考えました。30歳になって年齢のこともあるし、タイミング的にもこのまま辞めてもいいのかなとも思いました。」

「でも結局、やるしかないと思い直して。本当にいろいろ考えましたよ。その間も後輩たちから何人も、来年も一緒にやりましょうという連絡を毎日のようにもらっていて、そういうのも素直に嬉しかったし、表には出てこない現場のスタッフの人たちが、僕のことを、絶対に必要だから残ってほしいと言ってくれていて。あとはやっぱりナモさん(金守貴紀氏)のことがいちばん大きかった。あの人もたぶん、本心は少しサッカーから離れて休みたかったと思うんですけど、ああいう状況になって、ナモさん自身も「やるしかない」と言っていて。ナモさんのそういう想いや、これまでやってきたことを考えたら、僕もやるしかないと思いました。最終的に決めたのは、去年の大晦日あたりです。」

「決めたら後はもう、覚悟を持ってやるしかなかったので。強化部からは、やるからには背番号は10番を着けてほしいという話でした。やっぱりチームの象徴的な選手が10番じゃないとダメだと。僕自身は、10番を着けてたのは小学生の時ぐらいで、背番号にそれほど重みを感じるタイプではないんですが、ナモさんのこともあって、あの人の想いも背負ってやってもいいのかなというのは、どこかにあったと思います。まあでも、今でもそんなに背番号にこだわりはないんで。なんなら41番がいいんでね(笑)。」
※かつてレアルマドリードでプレーしていたグティの14番に憧れて、14がうまっていることが多いのでこれまでの所属チームでは41を着けていたのだが、武蔵野は41がGK専用番号になっているため昨シーズンは誕生日の29を着けていた

こうして開幕した2023シーズン、提携が解消され新体制となったことで、チーム内のスタッフもほとんどが入れ替わることになった。結果、広報も運営も人手や経験が大きく不足する中でのスタートとなったが、だからこそ、選手もスタッフもサポーターも含めてゼロから作り上げるという、「古き良き時代の武蔵野」が戻ってきたような雰囲気でもあったと思う。

「広報部と企画部というのを選手内で作りました。LINEグループを作って、そこにスタッフも入ってもらって。例えばSNSにアップする内容も、そこでOKが出たらそのまま上げてもらう、みたいなシステムを作ったりとかしました。まず人がいないので、選手も含めてできる人が誰かしらやらなきゃいけないと思っていましたから、僕がとりあえず作って、後は人を動かせばいいかなと思って、後輩を任命してやってます。そんな感じで、何もないところからのスタートでしたが、だからこそ自分たちで作ればいいんじゃないかと。新しく入ってきたスタッフの皆さんも、何も知らないからと逆に聞いてきてくれて、お互いに協力し合う関係を築けたのは良かったなと思っています。」

若手選手の奮起に期待も苦しいシーズンに

Jリーグへの参入を断念するという方針転換は、多くの主力選手の流出にもつながり、結果的に2023シーズンの最終順位は13位。シーズン後半は残留争いを余儀なくされた苦しい1年だった。

「僕がJFLに来て3年目ですけど、ものすごい混戦でしたよね。どことやっても差は全く感じなくて、だからこそ、今年は連勝がなかったというのが、まず上に行けなかった要因の一つだと思います。それこそ最終的な成績だけ見たら、浦安はもう6月以降ずっと負けなしで続いていたので、そういうチームはやっぱり上位に行くと思うし。勢いに乗れなかったというのは、残念な部分でした。勢いがあるチームって、毎試合5連発とか点を決めるような選手がいたりするんですよね。僕が2019シーズンにいた群馬は、あの年J2に昇格しましたが、すごく勢いがありました。誰が出ても勝てるような雰囲気がありましたけど、今シーズンの武蔵野には、そういう勢いはなかったのかなと思います。」

今シーズンの新加入選手は大部分が大卒の若い選手で、チームカメラマンとして接した印象では、真面目で心優しい選手が多いというイメージだった。実際に後藤も同じように感じていたようで、毎試合後のコメントでも、常に若手選手の奮起を促している。勝負の世界では、良い子であるだけでは物足りないのだ。

「みんな良いヤツすぎるんですよね(笑)。ただ、普段も良い子で、グラウンドに出ても良い子だとね、ちょっとやっぱり勝負の世界では物足りなさを感じてしまう。だから、ガツガツしてほしいというのはずっと言っていたことなんですけど。まあそこは僕が、若手にガツガツしたところを出させるような雰囲気を作れなかったというのもあるのかなとは思うんですけどね。でももう、ピッチに立ったらみんな立場は一緒だと思うんで。勝負の世界では、良い子なだけじゃ勝てないし、上には行けない。そこに気付くか気付かないか、自分次第だと思うから、若手にはそういうところから変わっていってほしいなと思っています」。

後藤自身の個人成績としては、28試合中25試合出場、1ゴール(天皇杯予選1試合出場)。実は、春先に後藤を撮影していて、身体の創りもプレーも好調時と比べると少し物足りないと感じていた。しかし、秋以降は豊富な運動量で縦横無尽に走りまわり、試合数やゴール数という数字の印象より、実際には圧倒的な存在感だったと思う。まさに「10番」にふさわしい活躍だった。

「最近は怪我をしない身体を作ろうと思っていて、そう考えるとスタートで100にならなくても良いかなと思うんですよね。JFLは夏場でもかなり暑い時間帯に試合があって、特にうちは練習を昼間にはやっていないので、そこをどう乗り切るかということもありますし。木曜は練習が休みなので僕はランニングをするんですけど、そのメニューを変えたり、秋以降は少しずつ強度を上げていったりしていたので、それが良い方向に出たのかなと思います。JFLも今年で3年目で、そういうコンディション調整の部分にも馴染んできたのかもしれませんね。」

大きな怪我もなくシーズンを終えたが、今年もっとも後藤を苦しめたのは、怪我ではなく3回の脳震盪だった。シーズン終盤、3回目の脳震盪で救急車で運ばれ、残留争いをしていた最後の2試合はメンバー外に。

「1回目の脳震盪は9月のHonda戦の時、あれは最初のプレーでしたね。で、2回目は11月の鈴鹿戦の前日練習の時。不意にボールが当たって鞭打ちみたいな感じになって。まあでも、次の日の試合はスタメンの予定じゃなかったので、15分ぐらいだったら全然いけるなという感覚で試合には出たんですよ。でもまた試合中に、不意に当たっちゃって。全然強いボールじゃなかったんですけど、すごく脳が揺れた感覚がありました。救急車で運ばれて、そのあと2日間ぐらいは、人生で初めて、めっちゃ寝たな、という感じでした。なんかもう、ずっと眠気だけが襲ってくる感じ。寝ても寝ても眠い。それが脳震盪の症状なんだと思いますけど、でも画像上は何も問題ないから、自然に治るとは言われていました。最終節まで、脳震盪プログラムでも問題はなかったんですが、短い間隔で3回も脳震盪を起こして、ドクター的には絶対に試合に出るのは許可できないということで、そのままシーズン終了ということになりました。」

チーム内での対話が勝利という結果に

今年4月、開幕して最初の取材の際に、今年の目標のひとつは天皇杯出場だと話していた。しかしそれは、奇しくも昨年まで提携していたいわば「兄弟チーム」の東京ユナイテッドに、東京都予選でジャイキリされるという形で敗退。

「天皇杯は、本当に出たかったです。組み合わせが発表になったときから、本戦の1回戦はグルージャ盛岡とできるということも知っていましたから。むかし所属していたチーム(2020年、甲府からレンタルで所属)に自分の存在価値を示したいとは思っていたので。それがモチベーションになっていたこともあったり。でも結局、負けちゃいました。」

盛岡では24試合に出場したが、目立った活躍ができたわけではなく不本意な1年だったと思う。そのチームに「自分の存在価値を示したい」とはっきり口にするところがまさに、彼が勝負の世界で長く戦い続けている秘訣のひとつだろう。上手くいかなかったことに「悔しい」という気持ちを持てなくなってしまったら、この世界ではとても続けてはいけない。

「それから、9月に三重で4-3で負けた試合は印象に残ってます。あの試合はたぶん、今年初めて逆転をしたんじゃないですかね。みんな良かったんですよ。ボールもすごい動いてたし、やってる自分たちも楽しかったし。でも、終わってみたらああいう結果になってしまって。終わった後、樋口さん(ヴィアティン三重監督、Y.S.C.C.横浜時代の恩師)とも話をして、やっぱりああいう試合になると、最後は気持ちの差が出るよなというのは思いました。もちろん気持ちが全てじゃないとは思うんですけど、三重はあのときまだ昇格がかかってたし、僕らの前の試合もアディショナルタイムで逆転勝利していて、勢いがあるチームってそういうことだと思います。」

「あとは、大分戦。あれは前期のホームの試合も、後期のアウェイの試合もどちらもよく覚えてます。ホームの試合は前半で2-0だったんですけど、後半はもう一方的に攻められてて、それでもみんなで身体を張って。本当に防戦一方でずっと押し込まれてたんですが、本当に今年いちばん、みんなで声出して身体張って勝った試合でした。で、7月の中断前最後の試合でアウェイのときは、その週は練習場の都合で1週間ほとんどまともにトレーニングができなかったんですよね。人生で初めて引き分けでもいい試合だなと思っていました。夏の暑い日でしたが、僕たちの中ではプラン通り進んでいって、でも最後の最後にこっちのミスでやられた。試合のプランを全体に共有できなかったもどかしさじゃないですけど、うん、伝わらなかったんだという、その気持ち、チーム全体で意思統一をしなければ意味がないというのは、改めてこれがサッカーだなと思わされた試合でした。」

「声を出してコミュニケーションをとるという部分が圧倒的に足りなかったなと。特に今年に関しては、(中川)諒真と鳥居(俊)が怪我でいないとき、どうしてもキツかった。去年はずっとあの2人は出続けていて、そこに任せっぱなしにしていたのもあるだろうし。去年はそれで守れていたので。中断前の1か月ぐらいは2人とも出られない時期があって、あの時期はいちばんしんどかったですね。」

さらに、今シーズンもっとも酷い試合だったと誰もが認めるアウェイのレイラック滋賀戦後の話である。チーム内で何があったのか。少し長くなるが、これはぜひ、全ての武蔵野ファミリーに読んでほしい。

「11月の鈴鹿ポイントゲッターズの前の試合がレイラック滋賀とのアウェイで、3-0で負けましたよね。酷い試合でした。試合が終わって帰りのバスで、後ろの方に座っている選手何人かの前で僕が「このままじゃマジで降格するな」って、ぼそっと言ったんですよ。それを聞いて(小林)大地がかなり危機感を持ったみたいで。大地は上手くいかなかった試合のことを、けっこう僕に相談したりするんですけど、あの試合はもう、サッカーもチグハグだったし、ちょっとこれは変えないとヤバいなみたいな話になりました。それで僕は、もう徹底することが全てだと思ったんですよ。絶対に勝ちに行くと。残り3試合で勝ち点7をとろうというのを、まずバスの中で俺は決めた。で、帰りの新幹線に乗る前に、石村さん(監督)に、もうサッカーを徹底してわかりやすくした方がいいという話をしました。前半は無得点だったとしても、前で小口(大司)を使ってちょっと相手を疲れさせて、疲れてきたところに(鈴木)裕也とか(石原)幸治とか出していった方がいいんじゃないですかというような話を軽くしましたね。

 それから、オフ明けの火曜日の練習の後に、僕と大地と幸治と裕也と、あとは諒真で、大地がグループLINEを作って、ちょっと話そうということになり、石村さんと話をする機会を作ってもらいました。今までのことはともかく、この3試合をどう戦うかというのを話そうと。各々が思っていることを言いました。僕たちの意見としては、もう後半勝負にした方がいいと。前半は0点でも、なんならセットプレーから1点ぐらい入ってたら万々歳、そこで僕と裕也と幸治は後半から勝負しようと。だから、僕らは後半からでいいから、前半は失点しない戦い方をした方が、勝ち点7を目指す上では大事だという話をしました。試合前日の練習中に脳震盪もありましたが、自分が言った以上は曲げたくなかったし、試合当日はプラン通り後半の65分から入ってプレーしました。だから、あの鈴鹿戦の勝利は、選手が自分たちから言ったことを、プライドと責任を持ってやった結果です。そこに関しては評価できる試合だったと思います。

 監督との意見交換も初めてでしたけど、滋賀戦が終わった後、このまま行ったらもう全試合負けると思ったので、そういう危機感から話し合いの機会を持って。それも大地が動いてくれて。あの頃は外部からも、選手だけでまとまった方がいいんじゃないかとも言われていたりしましたが、それだけじゃ足りない、追いつかないなという感覚があったので、この3試合をどう戦うのかを監督とも話し合うという選択をしました。鈴鹿戦はそういうことがあっての勝利でした。」

オーナーとして人とのつながりを実感する日々

後藤京介にとって、今年の最も大きなイベントは、5月に念願の純国産馬肉専門バル「Uma Uma F.C.」をオープンしたことだろう。吉祥寺という好立地もあり、試合後にサポーターが集うようになった。スタジアムグルメとしてコラボ商品を販売したり、アウェイ開催時はパブリックビューイングを開催することもあり、後藤も毎日、カウンター内に立って接客している。

「お店をやってみて分かったことのひとつは、僕たちのこと、地域の人たちに本当に知られていないんだなということです。吉祥寺に住んでいてもあまりサッカーに興味がない方からは「あ、横河ってトップチームあるんだ」みたいなことを言われることも多くて。だから、ぜひ見に来てくださいという話をして、それで何名も見に来てくださったりということもありました。僕は今まで、いろんな人と巡り会ってきて、人との縁にはとても恵まれてきたと思うんですけど、それ以上に今年は人の繋がりというか、たくさんの方と触れ合って、幅が広がりましたね。本当にいろいろな人が、僕のことを紹介してくれたり紹介してもらったり。いま現在もずっと毎日のようにそういうことが起きるので、本当に充実しています。お店をやって本当に良かった。だからこそ逆に、そこを言い訳にしたくなくて、お店をやってるからパフォーマンスが悪くなるというのは非常に嫌でした。そこはなんか、自分の気持ちの部分でスイッチが入ってコンディションも上がったのかなとも思います。それに、試合を見に来てもらう以上、また行きたいと思ってもらえるようなパフォーマンスを出さなければと思いますし。なんというのか、そういういろいろな想いが重なっているのかなというのは感じますね。」

「現役選手でお店を出して、それもシーズン中にお店で接客をしたりというのは、基本的にクラブから許可が出ないことも多いんですが、これができる環境には本当に感謝しています。他のチームの選手たちからは、やってることすごすぎると言われたりもするんですよ(笑)。」

今年は体制が変わったことにより、武蔵野という地域を大切にする原点回帰のシーズンでもあった。その中で地域のイベントにも選手自ら積極的に参加している。クラブ公式SNSでは、吉祥寺駅周辺の清掃活動についても発信されているので、話を聞いてみた。

「そうそう、あの清掃活動は、クラブスタッフの方がこれまではひとりでずっと続けてきた活動だったんですよ。それを聞いて、今年の1月か2月だったと思いますけど、最初はチームのために行こうとなって、川戸(大樹)も吉祥寺で店長をやってるんで(ハイエックス吉祥寺)、一緒に行くようになりました。そのあと、本当にたまたま清掃している地域でお店を出すことになって。だから一緒に清掃活動をしている人たちには、面倒を見ていただいて本当にお世話になっています。それもこれも、狙ってやっていたわけじゃないんですよ。本当にたまたま、清掃活動をしている地域でお店を出すことになった。不思議な縁ですよね。僕、本当にそういうところやっぱり持ってんだなと(笑)。あの活動にはいろいろな企業やお店の方も来ていて、そこから繋がる人脈もあったりするので。本当にありがたいですよね。」

「清掃活動をしてみて、もっと地域貢献に繋がるようなチームの活動を増やした方がいいなと思いました。それで今年は去年よりも、いろいろなイベントに参加して、それも選手が率先して出ようということで、僕もメインで出るようにしています。いろいろ楽しんでやってますよ。僕、何事も楽しく、とりあえずやってみようみたいな感じの性格なので(笑)。」

全てはサッカーで繋がっている

武蔵野でプレーして2年、JFLでは3年目のシーズンが終わり、ここまで79試合に出場。Jリーグでの出場試合数は91試合で、これまでのロングインタビューの際に「Jリーグ100試合は達成したい」という話を何度も聞いていた。そのため、JFLの100試合も目標のひとつだろうと、当たり前に思っていた。残り21試合、来シーズン中にはじゅうぶんに達成可能な数字である。

「あ、試合数のことは全然気にしてませんでした(笑)。そうか、79ですか。…うん、実はね、まだ来年のことは、あまり決めていないんですよ…。いろいろと考えなければいけないこともあって…。」

衝撃だった。今年は特に、地域を代表するサッカークラブの選手として、ピッチ内では10番にふさわしい活躍をし、ピッチ外でも地域に溶け込んでスタッフやサポーターとともにクラブを盛り上げ、彼のこれまでの経歴からも理想の形に近づいていると思っていた。来シーズンも同じように、その活躍をピッチ内外で取材できると、信じて疑いもしていなかったのだが…。

「いやでも、クラブのためには、やっぱり見に来てくれるお客さんを増やしたいですよね。また見に来たいなと思わせるようなチームを作らないといけないと思ってます。それが地域貢献から始まることもあるだろうし、いろんな可能性を作っていきたいなと。やっぱりお店を始めてから気付いたことですが、人や地域の繋がりというようなものが、もっと広がっていったらいいなと思います。それがサッカーでできるなら、いちばん良いですよね。また見に行こうと、そう思わせられるようなチームを作っていきたいなあって。」

「あとは怪我をしない身体を作ること。それは自分の、ということももちろんですが、なんていうんだろうな、うん、もっとチームみんなのプレーの質が上がるようにしていかないといけないなというのは、僕の年齢的にも思っています。」

「天皇杯にはもちろん出たいし、リーグも上位に食い込めるようにと思いますが、なによりも、みんなで作り上げていけるようなチームにしたいです。選手やスタッフだけじゃなく、サポーターもみんな全部含めてチームを作っていった方が盛り上がると思う。それは僕のビジョンでもあるんですけど、そういう人とのつながりは大事にしていきたいと思っています。」

なるほど。彼はサッカーを愛していて、そこから繋がる人との出会いを大切にしている。さらにそのことで、新しいチャンスを呼び込むという天賦の才があるのかもしれない。彼が言う通り、それはすべてサッカーをベースに一本で繋がっていて、たとえ現役選手ではなくなったとしても、何かが終わるわけではない。だとしても、だ。モンテネグロの小さな田舎町で初めて会ってから8年。何度も挫折を味わいながらも、今はここで理想のクラブを作ろうとしている武蔵野の10番を、もう少しピッチで見ていたいと思うのは、贅沢な願いだろうか。

「お店のことは、店長の堀江が、ここは俺に任せてくれればいいよって言ってくれてるんで、基本的にはアイツに任せながら、僕もできることはやってというスタイルです。だからアイツには本当に感謝してます。そうそう、この間はじめて大人向けの講演会を、武蔵野のライオンズクラブでやらせてもらって。これも次のステップに行くチャンスだと思って、自分なりの覚悟でやりました。すごく良い経験になりましたね。僕のこともクラブのことも売り込めて、今後のことも見据えて良い機会でした。あとは、これもずっと続けている<PARK SSC>のボールを寄付する活動でも、オフの間にいろいろ企画しています。そういうことも全部含めて、最近は選手のセカンドキャリアに関して、いろいろと興味がありますね。いま僕が経験していることが体験談として話せれば、それは自分にとっても他の選手にとっても意味があることなんじゃないかなと。」

「そんな感じで、もちろんサッカーをベースに、ビジネスでもいろいろなことに挑戦していますが、僕の中では全部それは一本で繋がってるんですよ。だからそれが今後どうなるかは、今はまだ先は見えないですけど、僕、ゴミ清掃活動をやっていた同じ地域にお店を出せちゃったりとか、そんな奇跡ないよってことを起こしたりするので(笑)。本当に、持ってるなと思います。これからも、時間はかかるかもしれませんが、いろいろな人との縁を大切にしながらやっていきたいですね。それは全部、これまでもこれからも、サッカーに繋がっていると思っています。」

後藤京介(ごとうきょうすけ)選手
1992年7月29日生まれ。東京都出身。178cm、73kg。
2015 FK Mogren(モンテネグロ1部)
2015-2016 FK Iskra(モンテネグロ1部)
2017-2018 Y.S.C.C.横浜(J3)
2019 ヴァンフォーレ甲府(J2)
2019 ザスパクサツ群馬(J3)
2020 いわてグルージャ盛岡(J3)
2021 ラインメール青森(JFL)
2022- 東京武蔵野ユナイテッド(JFL)

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