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私の卒業制作 -歪-

ご無沙汰しております。
先日卒業制作展示会が無事に終了し、卒業認定をいただいたところです。
ここでは、卒業制作で書いたエッセイと作品の1部をお見せしたいと思います。
エッセイと絵画作品の2つを制作しました。
私が大学生最後につくりあげたのは、大好きで、大嫌いな「手」に関する作品です。

この記事内の写真はヘッダー以外全て
『@ponzpoto』 様からの写真です。
※Instagram,Twitterともに上記のID

絵画作品(全88枚)

写真は1部です。

silenceという名前の作品です。茶道をする時の動作を描いています。
他にも人柄にフォーカスした作品など。美容師さんの手はBehind the Beautyという作品名。


モデルを務めてくださった方には非常に喜んでいただきました。
私の作品をこんなに好きだと思ってくれる人がいるのだと心温まり、嬉しい限りです。


エッセイ(12ページある設定ですが、文章だけ貼り付けておきます。)

エッセイ実物

歪-いびつ-

自分が嫌いだと思っていると安心する。
自分が先に否定してやれば、誰に否定されても大丈夫な気がする。
最強の保身であり、最悪な癖だと思う。
究極の謙虚でいれば、自分を必要以上に卑下すれば、誰も私のことをそれ以上陥れようとはしない。
他者の言葉から自分を守ることができる。

人よりも言葉に敏感なくせに言葉をぞんざいに扱っていた頃。
昔話ではなく、本当につい最近までの話。
親も、兄弟も、友達も、恋人も、先生も、みんな傷つけてしまったことがある。
全て自分の言葉のせい。
頭で考えるよりも先に言葉が口からこぼれてしまったことで、何人もの人を傷つけたんだろう。
その場の勢い、ノリ、感情のままに話すことは危険だ。
言ってしまってから時間が経って思い返し、自分を責めるところまでがテンプレートだった。

「あぁ、やってしまった。まただ」
「傷つけないように。感情を表に出しすぎないように。」

何度も自分にそうやって言い聞かせているのに、口は勝手に動く。自分を嫌いになる負の連鎖。 相手を傷つけることが嫌なのは、人を傷つけるような自分を嫌いになって責めてしまうことが嫌だからなのだと思う。
結局自分のためなのかよ、と幾度となく思った。
相手を傷つけないようにしようと思うのは人のためではない。
他でもない自分のため。傷つけたことがわかったとたんに自分を嫌いになる。

自傷行為。いわゆるリストカットみたいなのが有名だが、私は爪を噛む癖があった。
自分を嫌いになる代わりに、爪を噛んで傷つけると安心した。
心が傷つくよりも数倍マシだと思った。
しかしこれもまた、コンプレックスを産み、自分を嫌いになる要因の一つになる。
私は爪が短くて、綺麗な縦爪じゃないからと。

「ね、手見せて。」

中学の体育祭の最中、もう10月にもなるのにじんわりとした暑さが残る日。隣に座っていた友人が私の手を見つめている。当時運動部に所属していた私の手はよく日に焼けていて、更には爪の噛みグセまであった。美しいとはかけ離れた垢抜けない手。その時まで、自分がどんな手をしているかなんて気にしたことはなかった。友人の白く細い指が、 私の手とのコントラストで眩しく見えた。手のひらと膝の裏が汗でべたついて気分が悪い。関節という関節に汗が滲んできている。日焼け止めすら塗っていない自分に嫌気がさした。

そんなことを思い出すと、他にも自分の容姿にコンプレックスを抱き始める。小学生の頃、同級生の男の子に笑われた分厚い唇。幼少期からずっと周囲の子よりも太かった足。二重にしなよと言われた左右非対称な奥二重。足も腕も太い。鼻が好きな形じゃない。スタイルが良くない。
言い出したらキリがない。嫌いになる一方だった。
そうして自分を嫌いでいると、たとえ否定されても 「分かってるし。」 と思えるのである。
必要以上に傷つかずに済む。

顔も分からないような人に言われたって気にならない、なんて言える人はすごいと思う。
どんな人に言われたって、これ以上ないほど傷つく。だから、自分で否定して準備しておかないと心が死ぬ。
被害妄想をして、言われることを想定して、ひたすら最悪の場合に備える。
でなきゃ耐えられないメンタルの弱さに泣ける。

「自分を嫌いだと思う時間を、好きになる努力をする時間に変えなさい」

自分を嫌いだと思うことで他者の否定から逃れられる。
ただ、それは好きだと思ってくれている人を否定しているということであるのも事実なのだ。
自分を好いてくれている人、肯定してくれている人を、蔑ろにしている。
自分にとって最も避けたいことだと思った。
筋トレをしたり、美容にお金をかけたり、勉強したりと、いやでも自分と向き合うようにした。
どれが良かったとか、そういうことではなくて。
向き合ったという事実が大切なのだと思う。
以前よりは多少マシだと思えるくらいには自分のことを見直している。
好きでいてくれる人の言葉に耳を傾けて大切にする。
否定の言葉に逃げない。
そして何より、自分を嫌いになるようなことをしない。これに尽きる。
私の場合、嫌いになる方が簡単なんだと思う。すぐ楽な方へ走ってしまう。
そんな自分にムチをうって、嫌いになるようなことをしないように自分を大切に過ごしていきたい。
それがきっと、自分の身の回りの人を大切にすることに繋がると信じている。

マスクをすることが当たり前になった今、唯一露出していることの多いパーツは手だと思う。 手は人柄、美意識、年齢、想い、癖を映し出す。目は口ほどに物を言うとはいうけれど、手のほうが物を言うと思っている。
個人差はあれど、美しい手の定義は大抵の人にとって同じなのではないだろうか。細く長い指、縦に長くてピンク色の爪。
もちろんそんな手は言わずもがな美しい。けれど、手を追いかけているうちに私が美しいと思う手はもう少し幅広くなった。

毎日家事育児に追われ、赤切れがいたるところにある手。人を愛し、育てた証である。

手を酷使する職人の手。人の役に立った証である。
スポーツで浮腫んだり太くなってしまった手。懸命に努力した証である。

いずれも物語がある手で、その人となりを語っている。美しいと思う。
美術品のように、モデルのように美しい必要はなくて、自分の中で精一杯今を生きていればそれでいい。精一杯やるべきことをしていればそれが美しいのだと。


もし自分の手がコンプレックスだと思っている人がいるなら伝えたい。
そのコンプレックスを愛してとは言わない。「嫌い」 を愛すことは、この上なく難しいから。
自分の中でゆっくりと根を張り続けた 「嫌い」 の部分は、なかなか自分から出ていってはくれない。
それでも、私は全ての人の手を愛している。
例え貴方が嫌いでも。私は素敵だと思う。
貴方が過ごした時間と共に手は変化している。
それは貴方が一生懸命に生きた証。
大変だった時間も、大切な時間も全てその手に刻まれている。
その手は本当に美しい。
クサイね。わかってる。
もし私と会ったらそう言って笑ってください。

今回の作品について少し綴らせてほしい。
このエッセイを除く手の作品は、実は芸大受験をした頃に苦い思いをしたことが大きく影響している。
幼い頃絵を描くことが大好きだった私は、下手くそながらにも自分が好きなように絵を描いていた。 小中高の過程で学ぶ一般教養が恐ろしく苦手だったが故に、大学に行ってまで普通に勉強をする気は毛頭なかった。
だから芸術に逃げるように芸大への進学を試みた。
それが苦悩の始まりだというのに、ただただ他に興味を持てることがなくて呑気に「芸大に行く」なんて大口を叩いていたのである。
必然的に画塾に通い始めるのだが、まあこれが苦痛で仕方なくて。
たかだか週に1、2回しか行かないのに、自分が描きたい絵が描けないことがこれほどにまで辛いとは思わなかった。
受験をするのなら毎日○時間以上○枚以上は描かないと、とか。こういう風に描くのが正解だからそうしなさい、とか。
好きなことなんだからできるだろうと言われていたが、好きな絵もどんどん嫌いになっていっていた。 誰かに評価されるために絵を描かないといけない意味がわからなくて、上手くなりたいとかよりも自由に表現させてほしかった。

まあでも受験ですから。そんなの甘えですから。本気で合格したいなら描く以外選択肢なんてないですから。
そうやって自問自答を繰り返して押さえ込んでいたら、いつしか絵が描けなくなっていた。

そのまま受験日当日、のしかかる緊張と共に試験会場に飲み込まれた。
椅子の上で静かにパニックになって、鉛筆も持てず課題の日本語すらまともに読めなかった。
周りの受験生は描いている。同じ方向を向いて、同じものを見て、同じように描いている。

私のキャンバスには、まるで赤ん坊が描いたようなヨレヨレな線に力なく弱々しい色。
他の受験生との実力差は一目瞭然。昼休憩を挟んで次の試験を受ける意味など感じられず、ホテルまでどうやって帰ろうかとばかり考えていた。

予想通り、合否発表サイトに自分の受験番号は載っていなかった。
そんなことは見る前からわかっていたし、もうなんでもよかった。
それよりも鉛筆やカルトンといった道具を体が拒んでしまうようになったことが問題で、何よりも悲しかった。 あんなに大好きだったのに描けなくなってしまった。描こうとしても上手く描けない。絵を描ける人間に対しての嫉妬心も計り知れない。
こんな自分になってしまったことを心底悔やんだ。

画塾の先生に毎度線が薄いと指摘を受けていた。
何度描いても濃く描くのが難しい。
離れてみた時のインパクトがないと良くないらしい。
大いにその通りである。が、私の絵にはそれだけが正解ではないような気がしている。
細い線も、薄い線も、強い線も全て私の一部。
正解なのだと思っている。
私はずっとずっと、世の中の正解に自分の絵をなぞらえて描いていた。 本当に息苦しかった。それに耐えるだけの体力も精神力も私には無い。それが私から絵を奪った理由なのだと思う。 自分が正解だと思う線を描くことが許された今は、当時の自分が描いた作品も愛せるようになった。破り捨てられ、無惨に扱われる作品がひとつでも減ったことが嬉しい。

芸大受験のときにできなかったことをもとに、卒業制作で表現したかった。
それが試行錯誤の末この形になった。展示に至らなかった作品たちもたくさんある。
私が描いた88枚の手は、どれも異なっていて歪で不安定。薄かったり、濃かったり。
離れると見えない線でも、近くで見ると浮かび上がってくる。
この作品はあまり近視の人には優しくないかもしれない。申し訳ないけれど。
私はこの作品で初めて、自分の好きを形にできたような気がする。
4年前苦しんだことがようやく報われたような気がする。
もう一度自分の作品を愛せるようになって良かった。
あぁ、楽しかった。

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