こだわりは“好き”の煮こごり
こだわるというとき、妥協せずにものごとを追求するという良い意味あいで使われることがある一方で、細かいところに拘泥するといったようなあまり好ましくない意味あいで言われることも少なくない。
じっさい、こだわりをもった人というと頑固一徹な職人肌といったイメージがある反面、なんだか融通のきかない面倒くさげな人というイメージがあるのもまた事実だ。
たとえば僕の場合、こだわりの対象といえばまず「コーヒー」ということになる。
行きつけとまではいかないが、よく散歩するような街には一軒か二軒お気に入りの喫茶店があるし、豆を購入するにも馴染みのロースターで決まった商品を買うことが多い。
他人から見れば、きっと「こだわってますね」ということになるのだろうし、場合によっては「ちょっと面倒なひと」と思われている可能性もある。
だが、だからといってそれを狭量と思わるのは心外だ。というのも、自分で言うのもなんだが、僕ほど「コーヒー」というジャンル全般を広く愛してやまない人間はいないと思うからである。ことコーヒーにかんしては「博愛主義者」といってもいい。
たとえば、僕は「コーヒー」と名のつくものならたいがいは赦してしまえる自信がある。
ひとまずそれがコーヒーと呼ばれているかぎりにおいて、甘い缶コーヒーだって飲むし、なんならコーヒーメーカーで煮詰まった茶色い液体だって口にする。
旨いコーヒーでなければコーヒーとは言わないといった考えの持ち主とは、その点ちょっと違っている。
はじめにコーヒーありき
コーヒー原理主義
なにやらどんどんおかしな方向に行ってしまうが。
ただ、もちろんそれは極限状況の話ではある。どうせ飲むなら自分の好みにあったコーヒーが飲みたいし、多少好みから外れていたとしてもちゃんとした手続きでもって淹れたコーヒーが飲みたい。もちろん、あの店かこの店のコーヒーならなおいい。
なんでもいいと言いつつ、つねになんでもいいというわけじゃない。
出発点は「なんでもいい」だが、それを突き詰めてゆくうちおのずとピンポイントに絞られてゆく。そこにこだわりが生まれる。
仮にそれをこだわりと呼ぶとするなら、僕にとっては音楽や本もまたこだわりの対象と言えそうだ。
“No Music,No Life”というどこかで目にしたことのある惹句ではないが、音楽ならたいがいのジャンルを楽しむ自信があるし、じっさい日々聴いている音楽のジャンルも雑食といってよいくらいまちまちだ。おかげで、AIがおすすめしてくるプレイリストといったらほぼカオスといったありさまで使い物にならない。
それは本についてもおなじだ。
ひとから本を薦めてもらうのもうれしいし、自分がまだ読んだことのない本について書かれた文章を読むのも楽しい。
まったく読んだことのない本だとしても、ひとがそこまで熱く語りたくなるものにハズレがあるはずがない。まずはそう考えるものだから、気づけばこの世界は面白そうな本だらけということになる。そして、死ぬまでにあと何冊本を読むことができるのだろうなどと考えて一人ため息をつく。
これが、たとえば海外のミステリにしか興味がなかったりすればもうちょっとなんとかなりそうな気もするが、いかんせん世の中には好奇心を刺激してくるものが多すぎる。
いずれにしても、こだわりは「好き」をコトコト煮詰めたその先にしか生まれない。
「好き」が相手を知り、深く理解し、すべてを受け入れたいという肯定の感情であるとするなら、本当のこだわりもまた煮こごりのようにプルプルとしておいしいのではないだろうか。
煮ても焼いても食えないのは、だから、こだわりではなくそれがただの狭量にすぎないからなのだ。
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