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近未来人類は歪んだ真珠の夢を見るか?

最近、midjourneyという人工知能を用いたイラスト制作が流行っている。

人工知能によるイラストの生成というのは近年何度か流行したことがあるが、midjourneyの流行規模はこれまでに類を見ないものだと思う。
専用のDiscordに参加するだけで、誰でも簡単に人工知能を使ったイラスト生成を試してみることができるのだ。
私の記憶が正しければ、midjourney以前は精々「人工知能がこんなイラストを描きましたよ!」ということが事後的にSNSで拡散されるだけで、多くの人々にとってはやはり雲の上の技術だったはずである。
それがいきなり誰でも手に取って試すことができる「玩具」になったわけだから、流行するのも必然だろう。
私は人工知能に関しては完全に素人だが、それでも「技術の発展は目覚ましいものがあるなぁ」という感想を抱くのに十分な印象を受けた(実際にどうなっているのかは知らない。素人なので)。

Twitterがこの流行に沸く中、私はこんなツイートを目にした。
「機械に労働を任せて人間はクリエイティブな活動に勤しむのが理想的な未来観だったのに、今は人間があくせくはたらいて機械が創作をしている」というものである。

言われてみれば確かにそうだ。
私も、人工知能技術が熟したあかつきには、労働の大部分を機械が肩代わりし、人間は人工知能の技術者になったり、ベーシックインカムのようなものを貰いながら悠々自適に自分のやりたいことを楽しむようになるはずだ、と思っていた(少々楽観的すぎる書き方だが、部分的には間違いないだろうと考えていたのは確かだ)。
無論、人工知能技術も他の技術も、そういった「理想の未来観」の水準にはまだまだ及ばない部分があるだろう。
しかし、発展途上であるとはいえ、理想として描いていたものからこうも逆転した現象が起こると、理想の「らしさ」について疑問を抱かずにはいられない。

ところで、私はニートである。社会において自分の居場所を見つけることができず、五年の間生きているのか死んでいるのかよく分からない暮らしを続け、一年前に生活保護受給者となることでようやく一応の平穏を得た。
生活保護をベーシックインカムに分類してよいかは分からないが、「自分の労働に依らずに日々の生活を営んでいるもの」という側面では、先述した理想的近未来人と似ているということができるかもしれない。

最近発生した「理想的未来観の揺らぎ」を発端として、私なりに「人工知能が労働を担うことになった近未来」について改めて思いを馳せてみた。

その結果として、「そういった環境の変化が起ころうとも、人間という種が全体として創作活動により意欲的になるわけではないだろう」という予想を得た。
無論、人工知能の技術者や、消費対象となる創作の需要が今より増加することは疑いようがない。
人工知能技術の発展によって、その管理を生業とする人や、機械による創作、娯楽作品の産出をコントロールする人が必要になってくる。
しかしそれは単にそうした職業人口の増加、需要の発生に過ぎない。
私が言っているのは、「それらの職に就いていない人々」の余暇の話である。

先ほど私は自分のことを「近未来人と部分的に似ている」と評したが、その私が余暇を使って何か創作的な活動に勤しんでいるかというと、全くそんなことはない(このnoteはある意味創作活動と言えるかもしれないが、私にとってはTwitterの延長の殴り書き程度のものでしかない。全ての創作者がそう思っているのだとしたら、この論は終わりだ)。
きっと多くの人にとって、最適な余暇の過ごし方とは創作活動ではないのだ。
ゲームだったり音楽だったりの消費や、Twitterでの喧噪、そうしたものの方が余暇として気楽である。

これは私という一個人の考えに過ぎないが、一応根拠のようなものはある。
今流行しているmidjourneyについて、一つの気づきがあったのだ。
それは「人工知能に出力して欲しいほどの創作材料は私の中にはない」ということである。
midjourneyに単語を入力すれば、誰でも芸術家のようなイラストを出力してもらうことができる。

この「できる」という言葉がくせもので、真実ではあるが、現実ではない。
というのも、この「誰でも~できる」という一見非常に広い対象を取りそうな言葉は、「midjourneyを知っている」「Discordを使用できる」「人工知能に入力したいイラストの題材がある」「完成度の高いイラストを出力させるために必要な語彙や文法の知識がある」という、多くの前提に基づいている。
誰でもこの前提条件を満たしうるし、前提条件を満たすものならば確かに誰でもそうできる。しかし、現にその条件を満たしているものはそれほど多くはなく、少なくとも「誰もが」とはいかない。

インターネットに耽溺する生活を送っていると忘れがちなことだが、「インターネットに耽溺している」という時点で、少なくとも現代では未だマイノリティーである。
そこからさらにTwitterをやっている人、midjourneyを知っている人、midjourneyを使っている人……という絞り込みをやっていくと、全体からするとそれはそれはもう少ない部分の話であると分かるだろう。
人工知能を始めとする諸技術の発展は確かに新しい時代を作りうるだろうが、この巨大な母数からみた比率を簡単に塗り替えてしまうことはできないのではないだろうか。
万人が創作活動を行う近未来など、こうして考察を経た今では想像もつかない。

とまぁ、「根拠のようなものはある」とは言ったが、要するに私は「midjourneyに入力するべき創作的発想をもたない自分」に絶望して、その傷を守るためにこうしてつらつらと書いているに過ぎない。
ここまで書いてきたことが全く見当違いの妄想である可能性は全然ある。
ともかく、こうしてあれこれ考えてしまうくらいには今回のことは衝撃で、私は以前と違う結論を抱くに至った、ということだ。

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