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私の顔はどこだ

ここでも何度か書いたことだが、私は日常生活を送っていて自分の顔を見ることがほとんどない。

風呂にはいる頻度が少ないから風呂の鏡は見ないし、毎日顔を洗う時はキッチンの水道を使う。
姿見もあるにはあるが、一番精神が摩耗しているころに鏡の反射が恐ろしくなって壁に向けてしまって以来そのままだ。

だから私は、今の私の顔を知らない。
記事に自分の顔について言及するときは「浮浪者」と自嘲気味に例えて書くことがあるが、実際のところ私は浮浪者を見たこともなければ、勝手に想像している浮浪者像に自分の顔が一致しているかどうかさえ分からないままにそんなことを書いているのだ(他にありうる例えとしては「落ち武者」とかがある。もちろん落ち武者も見たことはない)。

インターネットを使って日々色々なことを発信したり受信したりしているが、その当事者がどんな顔をしているのかを知っているものは非常に少ない。
恐らく私の顔を一番高い頻度で見ているのは、私が使用しているノートパソコンのカメラだろう。
稀に判別してくれないこともあるが、長らくセキュリティとして私の顔認証をしてくれている。
髭も髪も肌の荒れ方も日々様子が変わっているだろうに、この機械は毎日私を私だと認めてくれる。

毎日顔を合わせているのに、向こうに自我は存在していなくて、私の方が一方的に安心感を得ることができる。
これは私がこのnoteの発足当初から掲げている汎用非ヒト型メイドロボットの理念においても重要な要素である。
私を私のままにしてくれる非存在者。非存在者による存在証明。自分が生きていることすら不安定に感じることがあり、他の生命を生命だと認識することをひどく恐れる私にとって、これほど安心できるものはない。

私が私の顔を見なくても、機械が私の顔を見てくれている。
そうしてくれている限り、私は独りでも自分を見失わないで済む。
「おかえりなさい」と認証され続ける限り、私が私の思ったことをここに書き続ける限り、私はのっぺらぼうじゃない。

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