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そろそろ四月も終わる

のほほんとしているうちに三月が終わり、今度は四月が終わろうとしている。
一月や二月はそれなりに時間が経ったなぁと思うが、三月の終わりに桜がどうのこうのといった記事を書いたことはつい最近のように感じる。
ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』に確か「我々(強制収容所の虜囚を指している)にとっての一週間は一日よりも短い。茫漠たる一日は途方もなく長く感じるが、それが連なると空白が圧縮されて短くなったように感じるのだ」といったような一節があったように記憶している(本が手元にないので正確なところは思い出せない)が、まさしくそういう状態である。
何もない一日(『夜と霧』においては無意味な刑務に就いている一日)は主観的に非常に長いが、それを後にいくらか客観的な立場で振り返ってみると、何もない分短く感じられる、というわけだ。
私がこの本を読んだのは確か高校二年だか三年だかのときで、自分の暮らしのことを言い当てられたような心地がして特に感心したのを覚えている。

この現象は強制収容所の虜囚や抑鬱気質の高校生以外の人々にも起こる、ごく普遍的なものだと思う。
別に強制収容所に囚われた人々を侮っているわけでも、普通の人々の暮らしも囚われた人々のそれと大差ないと言いたいわけでもない。人間のごく一般的な性質を上手く言語化しているな、と思ったのだ。
実際、いかにイベントだらけの人生を歩んでいる人であっても、一週間を一日の七倍の時間量として振り返ることはできまい。
「そういうもの」なのだ。私たちは過去を振り返った際に、実際より短い時間として思い出す傾向にあって、その逆はそうそうない。

四月が終われば一年の三分の一が過ぎたことになる。もうそんな時期らしい。去年の今頃はかなり命の危機を感じながら過ごしていたが、幸いながら今はそんなことはない。これからそうならないという保証もないが、とりあえずのほほんとできるうちはそうしていようと思う。
分水嶺となるのは生活保護やらなにやらの更新があるであろう六月下旬から七月の頭の時期だ。私のこの生活がいつまで続くものなのか、その時期になれば今よりずっと具体的に分かるはずだ。今から胃が痛い。

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