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衒学者曰く(げんがくしゃいわく)

衒学者(げんがくしゃ)、という言葉がある。
これは否定的な意味を持つ言葉で、過剰に論理を重視したり知識をひけらかしたりする人のことを指す。
この記事の中では、主に後者の意味でこの言葉を用いる。

私は幼いころから、少なくとも他人に言わせると衒学者的な気質があった。
両親や同級生、果ては教師から、「難しい言葉を使わないで」と頻繁に言われていた。
私は他人と話すよりも本を読んだりすることが好きな子供であったため、対話よりむしろ読書によって語彙を習得し、実生活でそれを用いたことによって「難しい言葉を使うな」と言われたのだと考えられる。生徒数が少ない、閉鎖的なコミュニティをもつ田舎の学校で育ったことも、この評に拍車をかけていただろう。

当の本人からすれば、知識をひけらかしてやろうというつもりはなかった、と言える(往々にしてそういった行為が自覚的に行われることは少ないので、この宣言は大した意味をもたないかもしれない)。
先述したように私は本を読むことによってその知識や語彙の多くを揃え、自分のものとして蓄えた。それは他の人々が周囲の人間との会話によってそうしたのと質的に同じことであるはずだ。その源がどこにあるかの違いに過ぎず、そんな違いは程度の差はあれ育った地域や習得する言語を同じくしようが万人に生じうるものである。
ただ人よりも内向的であったというだけの理由で、「難しい言葉を使っている」という誹りを受けたわけだ。

まぁ、数少ない例外を除いて、いちいちそのように言われたことを覚えているわけではない。
しかし逆に言えば、強烈な印象をもつ幾らかの発言に関しては、このようなことを書いていると思い出されることがあり、それらは確実に私の心に抜けない棘として残り続け、私の心の発育にダメージを与えてきたであろうことが推測できる(仮にも衒学者を自称したので、ここでは「トラウマ」という言葉を用いていないが、まぁ有体に言って一般的にトラウマという言葉で表現されるそれであると思ってもらっていい)。
特にそれらの具体例を挙げて恨み言を言いたいわけではないが、「そんなことは誰にでも起こりうる」ということは主張しておきたい。

例えば仲睦まじい夫婦の間でも意見の相違が生じたりすることがあるだろうし、親友同士でも喧嘩に発展するようなことがあるかもしれない。それほど親しくない間柄にあってももちろんそうだろう。
全く同じ境遇で生まれ育ち、全く同じ言葉を習得する人間など存在しようがないわけで、故にこそ人々は異なる思想や言語をもち、日常的にはあたかも意思疎通ができているかのように振舞うことができても、時にそうした諍いが起きることは避けようがないことなのだ。
私の身にそれが「難しい言葉を使うな」という形で現れたに過ぎない。こんなことは誰にでも起こりうる。
誰にでも起こりうるということはそれが起こることを正当化するわけではないが、「一般的なことだからしょうがない」と諦めることに繋がる。

以上の文章の全てにフリガナを振って、「難しい言葉」全てに解説を入れたとしても理解できないという人は当然にいるし、逆に稚拙すぎて読んでいられないという人もまた当然にいる。そして、「なんとなく分かる」という人も、厳密には私が意図したことの全てを理解できるわけではない。
そういうものなのだ。いいとか悪いとかの話ではない。
ただ、「こういう書き方をするといいとか悪いとかの話をしているように見えるかもしれない」だとかうじうじ考えていたり、少しでも綺麗な言い回しをしようとするあたり、確かに私は衒学的な人間なのかもしれない。

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