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銀杏北通オールスターズ


6時すぎにカウンターが満席になるのは、珍しいことらしい。


しかも今日は月曜日。
水商売には関係ないが、勤め人には一番気の重い日だと聞いている。


ああ、なるほど。
憂鬱だった一日を終え、お疲れ様の一杯って事か。
それなら納得がいく。


「違う。君だよ。」

名前は何と言ったか忘れたが、今さら聞けないチーフがウィルキンソンの炭酸瓶を冷蔵庫に詰めながら言う。
この冷蔵ショーケースも、近くで見るとだいぶ古い。でも綺麗に磨かれていて汚れてはいない。



「なんせ8年ぶりの新人だもんな。そりゃ初日に見たくなるよ。」


ビールの時間が終わったカウンターのお客さんが、次々に炭酸割りを頼むから、冷やした炭酸はすぐに無くなった。


「ハイボールって知らないだろ。メジャーじゃないもんな。一般的にはウイスキーの炭酸割り。でも元々は強い酒を何かで割ったら全部ハイボールなんだ。だから、同業者が来たら、何を何で割るかまでちゃんと聞かないとナメられるよ。」


全員常連さん。
と、雑に紹介されたカウンターに座る面々は、平均的に年齢層が高い。
男女はだいたい半々。格好は様々で、職業の予想はつかない。
ただ、皆付き合いは長そうだ。


「まあ、当面。ナメられるのが君の仕事だ。みんな知らん顔してるが興味津々みたいよ、君に。」



どうりでさっきから視線を感じる。
隣の顔見知りと話しながら、ちらちらと皆、僕を覗き見ている。


老舗バーへの初出勤の日。

夕方5時に来いと言われたから、4時に行ったら店のドアは閉まっていた。

いきなりやる気を削がれたみたいな気がして、地下への階段に座り煙草を吸う。

5本目でいい加減気分が悪くなった頃、チーフがよれたチノパンにTシャツでやって来た。


「なんだよ君。5時って言ったろ。」


うん。その通り。
ただ、早めに来た姿勢を誉めてくれても良かないかい。


出勤してからやる準備は、ちょっと拍子抜けするくらい少なかった。何でも後片付けは営業終わりに全部やっちゃうから、前準備はタオルを畳んだりカウンターを拭いたりするだけらしい。


「まあ、始まったら忙しくなるからのんびりしててよ。その辺に座ってて良いから。」


案外、楽な職場なのかも知れない。


じゃ遠慮なくと、テーブル席の椅子に腰掛けた瞬間、オーナーがやって来た。

危機管理能力の高い、簡単に言えばビビリの僕はすぐさま立ち上がる。


「おー。今日からヨロシクな大型新人。」


身長が僕と殆ど同じで大柄なオーナーは、肩から掛けたバッグからマンガ雑誌を取り出すと、カウンターの一番隅に座って読み出した。


緩い空気に気が抜ける。


いつまでやれるかは分からないが、暫くはゆっくりと、ここで社会に慣れるのもいいかもな。


また、椅子に座り直し煙草に火をつけながら、ぼんやりとそう考えていた僕の思いは、一時間もせずに木っ端微塵に吹き飛ばされた。



「一番さんオーダー入ります。サラダ、ドレフレンチ2、ミンチ2、ソーセージポテトカナッペエブリ1、パンはダブルでお願いします。」


チーフは、隣に突っ立った僕の頭を越えてオーダーを通す。
通しながら目の前のカウンターにグラスをいくつかと、シェーカーをふたつタンタンと置いた。


「ちょっとごめんね。後ろ通るね。」


本当は「邪魔」と言いたいだろう。僕だったら言う。


オーダーに「はーい。」と低く答えたオーナーは、何でもないように厨房近くの常連客と話しているが、内側からしか見えないカウンターのこちら側では、どういうシステムで動いているのか不明な程、手が速い。

バゲットをスライスしてトースターに入れながら、皿にレタスを敷きながら、フライヤーにポテトを投げ入れながら、振り返った時には型どりしたミンチ肉を持っていた。

あれ、いつ出したんだろう。

その光景に圧倒されてふと見たら、カウンターにカクテルが5杯出来ていた。


「ごめんこれ一番テーブル、うんそう、あそこのテーブルに持ってってくれるかな。」


チーフはこちらを見ずに言うと、またカウンターに次のグラスを並べながら
「いや、やっぱり焼き肉なら僕は浪花が好きなんですよ。知ってます?浪花。一本向こうの通りなんですが。」
と目の前の常連客に会話を返した。


いつから、話してたんだろう。



店長はそのタイミングで来た。
食材を買い出してから出勤する店長は、いつも少し遅くなるとは聞いていた。
前日に顔は合わせていたが、営業中だったので挨拶程度の話しかしていない。

金髪の丸坊主。
そのインパクトばかりが、印象に残っていた。


カウンターのお客さんに挨拶しながら入ってきた店長は、いくつも下げた買い物袋をどさりと置くと、僕を見もせずにオーダーの書かれた伝票をチェックする。


「暫くは大丈夫か。」


いやいや全然大丈夫じゃない。


オーダーは入り続け、L字になったカウンターの向こう側からも、店の人間を呼ぶ声がする。


急いで、店長。


「なあ、君。」

店長はいつ取り出したのか、メモ用紙を一枚ビアサーバーの下のスペースに置いて、上下に二本の線を引いた。


「この上の線が開店、下が閉店。今は営業中だからこの二本の線の間ね。」



何が言いたいんだろう。店内はうねるように唸るように、人々の話し声で溢れている。
僕は、勝手にひとりで焦りながら、ただ線の引かれた小さな紙を見ながら頷いていた。


「上の線よりさらに上、そこは開店前準備。下の線より下は閉店後の片付け。ふたつのスペースは狭いだろ。」



はい。確かに。
真ん中に空いた店長曰く営業中のスペースより、そのふたつは、はるかに狭かった。


「ただ君は、当分このふたつの場所でしか役に立たない。営業中はお勉強の時間だから戦力じゃない。だから準備と片付けで働けないと。」


その日初めて僕の目を見て、店長は続けた。


「この店に、君、いらない。」


あれほどうるさかった音が、一瞬消えた。




7時前と9時過ぎ、さらには11時半に午前2時。


お客さんのラッシュアワーは、実に4回あった。


全くの未経験だった訳じゃない。
アルバイトとは言え、長崎で何年も僕はバーテンダーだった筈だ。


その頼りなく自分の中にあった自信は、最初の2時間で踏み潰され、それからはカウンターの一番隅の壁に、体をねじ込むようにして、デカ目のオブジェと化していた。



時たまチーフが何かを話し掛けてくれたけど、何を言っているのかは分からず、僕はただ正体不明の薄ら笑いではいはいと相槌を打った。


それでも何かはしないと、ここにいる意味がない。

ひたすらに洗い物をする僕を置いてきぼりに、オーダーは頭上を通過し続け、隣では何十というグラスが客席へと出ていく。


くらくらするような喧騒の中、気付いたことがある。

3つのフライパンを同時に振るオーナーも、研がれすぎて短くなったペティナイフでトマトを切る店長も、引っ切り無しのオーダーに足りなくなった氷を切り続けるチーフも。


誰も殆ど自分の手元を見ていない。


談笑しながら、深刻そうな話を聞きながら、顔は前を向いたまま、何かを作り続ける手は少しも止まらなかった。


こんな店で、僕は戦力になんてなれるんだろうか。11時半に入ってきた、やたら声の大きい団体客を見ながら、気を抜けば座り込みそうになる足を、僕は何度か拳で殴った。




スナックやクラブが終わる2時過ぎに、最後の波はやって来た。
まばらにやって来る、いわゆる「アフター」のお客の他にも、深夜専門の常連さんはいるらしい。


「聞いてた聞いてた。新人君ね。」


ボサボサの髪に、妙に人懐っこい笑顔のお客さんは飲食店の店舗デザイナーだと自分で言った。


名前は覚えていない。
覚えてる余裕がない。


「ここ大変でしょ。みんな仕事に厳しいから。」


いえいえ、と。一応は儀礼的に否定しながら、ぶんぶんぶんと心で何度も頷く。


「ま。おつかれさん。お酒飲めるならビールでも飲みな。チーフ、新人君にビール注いでやって。」



「多久島さん。ありがたいんですが。」


サーバーに持っていき掛けたグラスをチーフから奪って、そこには店長が立っていた。


「初日じゃあるけれど、彼全然仕事してないんですよ。」


まったくその通りで、暗澹たる気持ちになる。
足を引っ張りこそすれ、僕はこの店の役に、ひとつも立ててない。


「ただ、下向いて仕事してなかった。洗い物してる間、ちゃんと前の客席を見てた。声は小さかったけどオーダーにも反応してた。初日だから厳しいことも言ったし、一杯目は店から飲ませてやりたいんですよ。」


店長は、きっちりとお手本の様に注がれたビアグラスを、僕に渡して言った。



「仕事してた。少しだけどな。」



オレはまだ飲んで良いって言ってないぞ。


オーナーが厨房から声を上げ、カウンターの常連客とホステスとおじさんたちが、一斉に笑う。


泡が全部なくなるまで、僕はそのビアグラスをしばらく見ていた。

















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