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TAFRO症候群×新型コロナウイルス感染9日目:再び、悪化。人工呼吸器装着か

昨日はおかゆだったから、朝食から軟飯に変わったかしら…半分くらいは食べられたかな?いろいろイメージを浮かべなから、妹と2人、父へ朝のLINEを入れる。他愛ない天気の話、そしてもれなくおかゆの昇格話題などのやりとりをして終えた朝。

お昼前になって、父からLINE通話が来た。
通話は、昨日の電話の声をはるかに上回る、父のしんどそうな声ではじまった。

『また酸素の値が悪くなったみたいで、管入れなきゃいけないかもって先生に言われた』

息が上がり、話すのもやっとという感じ。明らかに昨日よりも悪くなっている。一瞬でいろんな妄想がわっと頭の中を埋め尽くしていくのが自分でわかった。そのほとんどが悪い妄想だ。

『そうか、昨日よりちょっと苦しそうだもんね。先生に任せよう。そしてちょっとでも楽になれるようにしてもらおう、ね?大丈夫。先生きっといろいろ考えてくれてる』

『そうだね、頑張るよ』

気落ちしているのは完全にこちらの方で、父が言う「頑張るよ」には苦しいながらも力がこもっていた。頭の中が「この世の終わり」みたいな妄想に埋め尽くされている身体が元気な私と、病気で苦しい思いをしながらも頭と心が前向きでいる父。

なんなんだよ、もう。
なんなんだ?

すぐに妹に連絡をし、気持ちを落ち着ける。「いろんなもの、捨てない」と妹は言った。希望を捨てない、投げやりにならない、現実を見て見ぬ振りしない、苦しい気持ちから逃げない…その一言に込められたたくさんの決意を受け取ったような気がして勇気が湧いた。

悪い妄想を、しっかりと現実として受け止める思考に変えなくちゃ。

勇気を振り絞って、父に延命治療の意思確認

感染2日目に、挿管による人工呼吸で4日間鎮静状態だった父。このまま意識が戻らなかったらどうすればいいのだろう?妹といろいろ考え、迷い、葛藤していた。「命の選択をしなければいけないのかもしれない。本人の意識のないところで」この重みに耐えられなくなった私は、信頼できる人たちに頼り、助けを求めた。

『遺される方が少しでも楽になれる選択をしなさい』そうアドバイスをしてくれた方がいた。私はその言葉の意味を考え続けていた。「楽になれる」ってどういう状態なのだろう?と。

6日目に人工呼吸器が外れ、少しずつ快方に向かっていると思われた間も、頭の片隅にずっとへばりついていた「遺される方が楽になる」選択。私はひとつの答えを導き出せそうなところまで来ていた。

【父の意思に、添うこと】

自分の人生の終え方を、母は選ぶことができなかった。なんの兆候もなく突然急変しその日のうちに亡くなった。遺された家族にとっても「何が起きているのかわからない1日」のあいだに母がいなくなり、何の準備もできないまま母のいない生活が始まった。私は高校生、妹に至ってはまだ中学に上がったばかりだった。そして当時の父は40代前半。正直言って苦難でしかなかった。

でも、父の場合は違う。知られていない無名の疾患ではあるけれど、一度死にそうになる経験をして、父本人も、そして家族も、いつか来るのであろう父の死を受け入れる準備をする時間をもらうことができた。

それなのに私は、怖くて、「自分の人生の終え方」を、できることなら叶えたいであろう希望を、父に尋ねることができずにいた。

もしかしたら現時点まで父はそんなことは考えず、いつものようにただ、現実を受け止めるだけなのかもしれない。人生の終え方を尋ねることは、私たち家族のエゴなんじゃないか、そんなふうにも思った。

でもだからこそ、訊いておきたい。
訊かなければ絶対に(私が)後悔する。

コロナの症状が回復したら、絶対に話をしようと思っていたのだけど、そのタイミングは想定外に早く訪れたのだと確信した私は、思い切って父に送るLINEの下書きを始めた。慎重に、でも端的に、思いを伝え父に尋ねる言葉はどんなものか?頭をフル回転させてスマホのメモ帳に入力していく。

挿管されてしまったら、また機会を失うかもしれない。今ならまだ間に合う。急がなきゃ。

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10分で完成させ、LINEで送信する。
間に合わないかもしれない。読めたとしても返事を入れるほどの体力が残っていないかもしれない。それでも「父に最後まで尋ねることができなかった」という後悔は少なくとも残らない。もう、それでもいいと思った。

『でも、みんながいるから、頑張るよ』

20分後、父から返事が来た。間に合ったんだ…おそるおそる読んでみる。

『ありがとう!お金をわけてください。でも、ふたりがいるから頑張るよ』

そ、そこか?!
なんだか拍子抜けしてしまった…

もらった言葉はあとから解釈することにして、急いで短い返信を送る。

『わかったよ、そこはちゃんとうまくやる。ありがとう。帰ってくるの、待ってるからね』

『待っててくださいませ』

私が訊きたかったことと父が言いたかったことは多少の?食い違いがあるようにも思う。でもひとつ言えるのは、父は【頑張る】ということなのだ。もうずっと頑張ってきた。それでもなお「頑張る」つもりなのだ。何のためにそこまで頑張るのか?それは私たちのためにほかならない。それが父の意思だということは充分すぎるほど伝わってきた。

そして、少なくとも私が「こうしようと思っている」と伝えたことに対し、否定がなかった。それが父の答えなのかなとも思った。父がこの時どんな状況でこの返信をくれたのかはわからないけれど、現時点での父の意思を聞けただけで私は少し気が楽になったような気がした。

あぁこういうことだったのね、楽になるって。
父に尋ねるまでの時間はほんとうに辛くてしんどかったけど。

人生の最後に関する意思は「生き方の理想」なのかも

この一連のやりとりを妹は「お疲れさま」とねぎらってくれた。たとえ返信がなかったとしても思いや考えは伝わってるはず、と。この言葉にもずいぶん気持ちを楽にしてもらえた。

だけどやっぱり、こういうことは元気な時に話しておくことだと改めて思う。いざとなったら訊けないよ、こんなこと。死ぬか生きるかの瀬戸際で戦ってる人に、その渦中に、尋ねるようなことじゃない。

目の前に起こっていないことを話し合うことが難しいのは承知している。何よりたった1年と少し前まで、父も私も、私たち家族全員が、家族の死の瀬戸際に追い詰められることなんて想像していなかった。いや、母のこともあったから「もしかしたら」くらいは思っていた。でもだからと言って家族でこんな話はできなかったし、考えもしなかった。

望む死に方があるのだとしたら、個人的には一番最後に逝きたい。大切な人を亡くす悲しみを味わわせる人をできるだけ少なくしたい。けどそれはあくまで私の考えで、人によって違って当たり前だし、第一、理想を描いたところで絶対に叶うとも限らない。

そっか、理想なのだな。
死に方の理想は、生き方の理想でもあるのかもしれない。だとしたら、大事な人の理想はやっぱり聞いておかなきゃいけないよね。

1年前は「嫌だ、嫌だ」と逃げ回っていた。
まだ父は60代なんだ、早すぎる。
そうやって泣いて喚いて、現実逃避。

父の覚悟を見せられ、見たくないものから逃げるなと教えられた。いつかくるその時を受け入れなきゃいけないことを知った。

そして今は、できる限り父の意思に沿った理想の「その時の迎え方」を考えた。終活なんてキレイなもんじゃない。タイミングとしてはグチャグチャにカッコ悪いものかもしれないけど、それでも考えた。

もしかすると少し成長できたのかもしれない。

挿管か?ECMOか?それとも

父の現状がICUに入る時と比べてどうなのか、治療の選択肢がどの程度あるのか、どちらもわからない。ただ、再度挿管する可能性を先生は父に説明していた。それでもダメなら次はECMOだと前回聞いている。

一旦良くなりかけて、また悪くなって。
TAFRO症候群の重症時もこんなことはあったよな。その時は乗り越えられたけど…今回はさすがに…

だけど、父は「頑張る」と言っている。
どんな治療が最適なのかは先生方がきっと考えてくださっている。

じゃあ、待つだけだ。
それしかない。



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