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結び直しの物語(すずめの戸締り初見感想)

新海誠監督の最新作「すずめの戸締り」を見に行ってきた。
話題の映画というだけあって、劇場のタイムスケジュールは北方田舎の映画館には珍しく30分おき。劇場内の人もいつもの5倍くらいはあったように思う。

冒頭の12分間は地上波で流れた内容(Amazonプライムでも公開中)を視聴済みだったので心構えをせずに見ていたのだが、物語が進むにつれて「これは本当に新海監督の作品なのだろうか?」と言う違和感を覚え始めた。それは前作の「天気の子」でも感じることではあったが、今回はそれが顕著に感じられた。

「天気の子」以前の監督の作品では季節や事象の描写が極めて緻密で、時の流れの表現に重きを置き、それと共に人が合わせていく、といった独特の空気感があったのだが、前作を含む二作にはそれを感じる隙間のようなものが無くなり、現代の日本映画としてのテンポのまま話が進んでいく。今までの新海監督の映画で大事にされていた叙情感が薄くなっている?感覚を覚えた。
彼の初期作品群を「説明(朗読)だらけで面白くない」「淡々としすぎている」と言った意見もあるのは分かるのだが、彼の作品を「抒情詩」として見てきた私にはその点が少し寂しくも感じた。

しかし、話の内容としては主軸がはっきりとしてわかりやすく、監督自身が何を伝えたかったのか。どうしたかったのか。という意図が汲み取りやすく、またシーンの切り替わりに使われるシーン演出や道具の使い方などの秀逸さは顕在である。
そしてそれぞれのキャラクターが魅力的に描かれており、それぞれにそれぞれの生き方(ストーリー)が存在している。
何を考え、どう生き、何に痛みを感じているのか。全てに共感ができてしまう。物騒な言い方だが、死んでほしい登場人物が一人もいないのだ。

(以下ネタバレを含みます)
この物語を「都合の良い物語」だと解釈してしまえばその意見には少し同意をする。主人公岩戸すずめ(以下すずめさん)が制服姿のまま子供の椅子とスマホ一台だけを持ってフェリーに乗り込んで来たら家出少女かと警戒するし、あまつさえ愛媛で出会った同級の高校生の民宿に無賃で泊まったり(民宿の手伝いはしている)、夜のパブで働かせるなど、誰が許すだろうか?高校生とはいっても、まだ未成年なのである。心配とかそういう問題の話ではない。養母のタマキさんが怒るのも妥当であろう。すずめさんの「旅」は前途洋々しすぎで「都合が良すぎる」のである。しかしこの物語の根幹はそこなのだろうか?

さて、私がこの記事のタイトルを「結び直しの物語」としたのはなぜなのか?それはこの作品の前2作品を
『繋がりの物語』と『繋がりを絶ってしまった物語』
と仮定しているからだ。
そして同時にこの3作品は過去・現在・未来を表現しているのではないだろうか。ということである。
(何事も大仰にとらえてしまうのは私の悪い癖ではあるがあくまでもこれは私の吐き散らしであるので、こういう考え方もあるのか。程度に捉えてほしい。)

繋がりの物語。つまり「君の名は。」は誰かと繋がっている。必要な時には誰かがいる。支えてくれる世界のお話だ。誰もが誰かを必要とし、存在を許容し信頼してくれる。とても晴れやかで光り輝いている世界だ。
劇中でも主人公の祖母が「結」という言葉で人とのつながりがいかに大切かを説明しているシーンがある。古臭く煩わしくもありながら、他人との「結」が自分を救っていた。いわゆる「過去」の日本の姿なのだろう。
一方で「天気の子」は冒頭から繋がりが希薄で孤独、支えてくれる人という概念も最早存在しているのかわからない。日々の漠然とした不安に凍えながら耐えている。非常に重苦しい世界の物語だ。
雑誌の記者が刑事から「大丈夫ですか?泣いていますよ?」と問われるシーンはとても印象的である。
古きを全て捨てさり、新しいものばかりを求めていった結果、残ったものは果たしてなんなのか?これこそがまさに『繋がりを絶ってしまった』世界であり、現代に生きる私たちが抱える矛盾と寂しさの体現ではないだろうか?

前2作品で繋がりとその断絶を描いた今、3作品目となるこの物語では一体何を描けば良いのだろうか。
そこで彼、新海誠監督は「結び直し(未来)」を選んだのではないだろうか。

この物語には様々な見方があるし、一概に「これが真実」と決めつけられる物でもない。私は初見で「この作品には二つのポイントがある」と感じた。
そしてその物語の第一のポイントは、映画を見た皆さんも周知の通り「東日本大震災」なのである。

沢山の喪失と悲劇を呼んだ大災害が今、忘れ去られようとしている。
メディアではその時期になると「忘れない」と何度もニュースや特集番組が組まれていたが、最近ではその特集ですら目にする機会が少なくなってきたように思う。
それもそうなのだ。経験した人間にとっては「永遠のように感じること」でも未経験の者にとっては「過去に起こったこと」なのだ。同じ時を過ごしていても同じ場所・境遇にいなければ経験の共有など、あり得ないのだ。

宗方草太の同級生の芹沢と、すずめさんが彼女の故郷(震災)の跡地に赴いた時、小高い丘に立ち、休憩するシーンでその描写が描かれている。

芹沢「ここって、こんなに綺麗な所だったんだな」
すずめさん「…っえ?」

たった二つの台詞と景色だけで双方の「忘却」と「永遠」の相反する認識を表現している。私自身も芹沢の立場にいる人間なのだ。こんな記事を書いていても、私は「永遠」を経験したすずめさんたちの痛みを知ることはない。
「忘却」と「永遠」の狭間で苦しみ、もがき、それでも未来があると信じて生きていきたい。
クライマックスのシーンで人の姿を取り戻した宗方草太が唱えた祝詞は、きっとその気持ちが凝縮された形なのであろう。

そしてもう一つのポイント。それは「神」である。
今作では地域(土着)信仰や古事記などで描かれる日本の神々(考え方)が根底に流れている。
ここでそれを解説しようとすると、浅はかな知識を露呈することになる。とてもわかりやすい動画があったのでそれを貼り付けておこう。

今作で描かれている「ダイジン」とは一個体の神様であり猫という形をなしている。作中でも「神は気まぐれだから」という宗方草太の台詞と猫の姿がリンクし、妙に納得した。

冒頭で私は「今までの新海監督とは違う雰囲気だ」と記述したが、ひょっとしたらこれは彼自身の「成長」の形でもあるのではないだろうか。
今回の作品の主人公は女性だが、前2作は高校生の男性として描かれており、作中に登場する宗方草太は一人の成人の男性である。
主観的に物語が展開していった前作とは違い、今作は男性が脇役となり主人公を支えるポジションとなっている。
(実際作中でも、宗方草太はすずめさんの椅子に憑依した状態で8割方人の姿を見せない。だからこそイケメンに描いて印象を強くしたのか?)

様々なものを選択し、時には捨て去り日々を生きていく。
それは「洗練」とも言えるし「無情」とも言える。この映画で様々な物を感じ学び取ることができたが、私はその中で一体いくつを拾い、日々に活かせるのだろうか?
ひょっとしたら、本当に大切なことは自分の意識しない奥底に存在していて、定期的に外的な力によって想起させられているのかもしれない。
ただ無為に日々を生きるのではなく、自分や他人が心身ともに納得できるような生き方を心がけたいと思うこの頃である。

終わり

ここまで読んでくださった方々に最大限の感謝と敬意を。
ありがとうございました。

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