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【蛇にピアス】一つの小説をこんな真剣に考えたのは初めてだった
映画や本を見たとき、自分が理解しきれなかった気がするものほど、後でレビューを読みたくなる。それは、感覚に言葉を与えたいような気持ち。ネタバレ注意とかいうけど、読む前、観る前にレビューを見ることはない。思うにそれは、観た後・読んだ後にこそ読むものなのだ。このぼんやりとした感覚に、輪郭を与えたい。他の人は、これをどう見たのだろう?そう思っては、スマホのレビューの海にダイブし、作品とそれを形容する言葉を行ったり来たりし、「へえ〜そこは見えてなかったな」とか、これは言い得てるなぁとか思うレビューのブラウジングって、超楽しい。自分が理解しきれなかった気がするものほど、それは玉手箱を空けるみたいだ。
一回でも小説を書くと、次に小説を読むとき、違うように見える。その美しさがよりわかるようになるから──と又吉さんがどこかで言っていたけど、なんとなくわかる気がする。小説を読むとき、今は自分のなかに感覚が二つある。読者としての感覚と、書く人としての感覚。後者の感覚で読むと、蛇にピアスには作家の才能を感じる箇所が疑いようもなく点在する。入りから舌にピアスを開けてもらうまでのテンポ、ギャル友との会話を通してなめらかに世界に入れるスムーズさ、そして滑らかに紙の上を滑る視線が時折動けなくなるような、目を釘付けにさせ、心のなかで立ち止まって読みなおす一文の存在。
でも、そういうパーツの凄みがどうこの一編を織りなしているのかはやはり理解できず、すごい才能と思いつつ、後半からが読者としてはどうもよくわからず、なんだかよくわかんない本コーナー行きの本だった。(@心の中の本棚)長い間。
でも、この2週間くらい、『蛇にピアス』のことを考え続けていた。昔読んで最近ふと再読してみたのだけれど、そのタイミングでちょうど蛇にピアスについての読書会をしているポッドキャスト『夜更かしの読み明かし』を偶然聴いてる、それがあまりに面白かったからである!!!
そうやってかれこれ十日間ほど考え続けたら、それが面白いほど発展していき十日前とは全然違う熟成を見せたから、書いておくことにした。思うに、don’t think,feelな作品で、わかる人には、わかる。な作品。だからすっと共感できる人には要らない。でも、わからない……けどわかりたい……人には、悪くない読み方ガイドになる気がするから。
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蛇にピアスとは
『蛇にピアス』は、すっごく浅く端折ると、無気力に生きていて、見た目はギャルなルイ、赤髪にスプリットタンを持つ見た目は怖いけど心は優しく、忠犬ハチ公みたいにルイを溺愛するアマ、入れ墨の彫り師で全身入れ墨男のシバさんの物語。アマとルイは同棲してるけれど、ルイが身体改造に魅せられて『麒麟と龍の入れ墨』を背中に彫ってもらうためにシバさんの店に通ううち、MなルイはドSなシバさんとも肉体関係を持つようになる。そんなある日アマが失踪&遺体で発見され、ルイは錯乱からの放心状態に陥り、シバさんに面倒見てもらってなんとか生きてる状態に。その後シバさんがアマを殺した犯人であることに気づくも、何もなかったかのようにそのままシバさんと暮らしていくことを選ぶ──みたいな感じ。
あの、人の心の機微とか、全部端折るとね。
で、最後の一行以外はほとんどの読者の共通理解で、最後の一行のルイの理解と行動だけ、理解は人によって分かれるぐらいの行間で、描かれる。 私も最後がわからず、え?ん?はい?と何回か最後読み直して、しばらく考え、ネットでレビューをいくつか読み、シバさんが殺したってことだよね……?と、そこまでは一致的な理解なんだンァとストーリーに対する理解を補強し、でもそれって尚更、意味不明……そんな風に思っていた。
なんで意味不明かって、小説の描写的には、アマがいなくなってルイは感じたことのない絶望を感じ、アマを愛していたのかもしれないと気づくという展開なわけだけど、そんな愛情を感じていた人を殺した相手と認識しながら、シバさんと(犯人と)と生きてく決意をする?
凡人の感覚で読んじゃうと、物事に感情的なつじつまを求めるほどに、不可思議できょとん。。。
あのですね。ええと、結論から言うと、ストーリーで蛇にピアスを理解しようとしては、いけないんですよ。(爆。ごめん、常識だったかも。
と、無意識にストーリーで理解しようとし、解釈を読みまくった果てに、ようやく気づいた。ああ私ってこんな読解力ないんだって、一瞬悲しくなったほど……here is why.
WHY①“恋愛物語”として読むと、破綻する(浅くね?ってなる)
蛇にピアスは言わずと知れた芥川賞受賞作だが、その年の芥川賞の講評は、蛇にピアスを「恋愛小説」かのように言う人が多い。
“なにしろ痛そうな話なので、ちょっとひるんだ。道具立ては派手だが、これもまた一種の純愛なのだろう。”
“良識あると自認する人々(物書きの天敵ですな)の眉をひそめさせるアイテムに満ちたエピソードの裏側に、世にも古風でピュアな物語が見えて来る。ラストが甘いようにも思うけど。
“結末も、見事なものだ。読書はここで、主人公と殺されたアマとの繋がりの深さを陰画のかたちで今更ながら訴えられる”
まあ、帰ってこないアマをルイが心のなかで呼んで、ピアス2Gにしたの喜んで、勝手に日本酒を飲んでしまったことを、怒ってよ。って思うモノローグは、つたなくて、胸に迫るんだけど。うえーん。
だけど、でも、じゃあなんで?ってどうしても解せない。
ところでこのおもろいポッドキャスト『夜更かしの読み明かし』の読書会メンバーの感想は、芥川賞の審査員達(文壇の大御所作家陣)とは全然違うのがまた面白い。
村上龍は、蛇にピアスの文庫本の解説を寄せているのだけれど、そこで「ルイを描き切った才能に素直に共感した」という。黒井千次も、「(一人称で書かれた候補作四篇のうち)「蛇にピアス」における〈私〉が最も必然性を備えた一人称である」って、つまりは小説を通して、ルイを物語れていた点を推しの理由に挙げる。
一方ポッドキャストの読書会メンバーは、ルイが薄くてようわからない、なんか不自然で適当に書かれているように見える、という。
──「スプリットタン」って聞いて、スプリットが裂けてるって意味ってわかるような子達なのかな。Savageって単語わかる?あと柴田キヅキって表札出すか?!笑 SHIBATAって出しそうだけど。それから、ルイが「〜だわよ」って話してるのに、たまに「じゃねーよ」とかになるのが、なんか適当に書かれているように見えて……。
いやいやいや、私はそこは村上龍に賛成で、描き切っていると思う。ルイの二層感を。アンバランスさを。
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ルイとは?
ポッドキャストの大島さんは、『ルイは、流されちゃう子だった、ってことなのかな』って呟くんだけど(ラストに対して)、ルイって『自我がない』わけでは決してないと思うんですね。セックスのあと毛がバリバリになるのが嫌だから、お腹に出せないんだったらゴム使ってよとはっきり自己主張するし、酔っ払いとアマが殴り合いの血だらけの決闘を勝手にしだした横で、友達を巻き込まないように、「マキ、あんた逃げな」って言うし、しかもそこでのマキちゃんの描写ときたら!
「アマ!」
怒鳴ると、アマはようやく体の力を抜いた。正気に戻ったか後ほっと息をついた私の目に映ったのは、男の口の中をまさぐるアマの指。
「何してんだよこの野郎!」
私はアマの頭を引っ叩いてタンクトップを引っ張った。その時、わずかにサイレンの音が聞こえた。
「マキ、あんた逃げな。早く」
マキは真っ青な顔で頷くと、「今度また三人であそぼーね」と言って手を振った。マキは意外にタフだ。酔ってる割にはなかなかの走りでその場を去った。
この状況で「また遊ぼーね」って言って走るってもうコント的なユーモアで最高なんだけど、なかなかの走りっぷりでその場を去ったとか、すごく冷静に周りを見ている人なわけですね。(あんた逃げな、ってそんなことその場面で言えるの相当肝座ってるで..)、で、自分は警察に捕まらないようアマを引っ張って逃げて帰った家で、「アマ、あんた成人してるんだから、人殺したら実刑なんだよ。わかってる?」とか言うし、シバさんと寝た後はアマにはバレないようにシャワー浴びて着替えてさらには薄く化粧までし、アマを逆上させないように動いてる。
本当になんも考えてない(自分で考えて判断することがない)子だったら、そのどれもできない。現実的な目線で世界を見ている、その年齢にしちゃ腹の据わったところのある女の子な訳で。スレてる、と言えばそれまでだけどスレたなかにも尖ってて手が切れそうな鋭さがある。
そんな風に年齢より大人びたような印象のルイだけど、一方で不都合な真実にどう対峙できるか、においてはとことん幼児性を発揮する。倫理観、誠実さ、社会性てなものからは程遠く、ひたすら自分のことしか考えてないルイちゃんは、例えば殺めてしまった人にも家族がいるとか、あるいはシバさんと寝てることがアマを傷つけるかなんてことは一切彼女の脳裏にはよぎらない。でも自分が可愛いだけの行動をとるけど、自分を好きかって、そんなことない。自己嫌悪と消滅願望を抱えた手が切れそうな19歳、それがルイ。
WHY②「なんの物語?」“成長譚”として読むと、成長してねえじゃんって、突っ込みたくなっちゃう
読書会ポッドキャストでは、永井さん(あんまり本作に好意的じゃない哲学者)は、「ルイの成長譚、としてなら読める」と言って、えっ???そうだったんだ???どの辺が???とか思ってしまった。成長譚と読もうという意識で読むと、なるほど、と思った。
アマの死後、ルイが背中の龍と麒麟に目を入れるシーン。
……入れ墨を入れたあの時、あの時私は一体何のために入れ墨を入れたのだろう。今、私はこの入れ墨には意味があると自負出来る。私自身が命を持つために、私の龍と麒麟に目を入れるんだ。そう、龍と麒麟と一緒に、私は命を持つ。
「飛んでいかねえかな」
シバさんは私の背中に針をさしながら言った。
「飛んでっちゃうかもね」
私はクスクスと笑ってシバさんの顔を盗み見た。シバさんは、もう私を犯せないかもしれないけれど、きっと私のことを大事にしてくれる。大丈夫。アマを殺したのがシバさんであっても、アマを犯したのがシバさんであっても、大丈夫。龍と麒麟は目を見開いて、鏡越しに私を見つめていた。
いやぁ、この辺りのアホなのに爽やかに見せてしまうくだりは、金原ひとみの天才性が光ってますね、本当。
自分の行為にたいした意味なんて何もないとそのほとんどを否定しているルイが、唯一(2回あるから唯二か)作中で意図を持ってとる行動の一つが、これである。龍と麒麟が飛び立てないようにあえて瞳を入れていなかった状態をやめて、背中の龍と麒麟に、目を入れる。つまり「未熟」がゆえに(=未完成なゆえに)ルイから離れられない龍と麒麟ではなく、自由意志を行使できる存在という成熟を彼らに与える。そのあり方を選択するルイは、依存や所有される愛を卒業したという事、的な?
“──所有、というのはいい言葉だ。欲の多い私はすぐに物を所有したがる。でも所有というのは悲しい。手に入れるという事は、自分の物であるという事が当たり前になるという事。手に入れる前の興奮や欲求はもうそこにはない。欲しくて欲しくて仕方なかった服やバッグも、買ってしまえば自分の物で、すぐにコレクションの一つに成り下がり、二、三度使って終わり、なんてことも珍しくない。結婚なんてのも、一人の人間を所有するという事になるのだろうか。事実、結婚をしなくても長い事付き合っていると男は横暴になる。釣った魚に餌はやらない、って事だろうか。でも餌がなくなったら、魚には死ぬか逃げるかの二択しかない。”
所有は悲しい(=完全に自分のものになってしまったら、魅力を失う)というメンタリティだからこそ一歩手前でやめておくわけだけど、そういうメンタリティを卒業し、所有しても愛でる、手に入る・入らないのステータスに関係なく愛で続ける、そういうルイに変わったということ?
と、こういえば、成長譚として読めそうである、確かに。でも、これをもし、いい話、成長譚と読めるのであれば、ものすっごい懐が深いひとだと思う。それこそ、人が不倫したとか、通訳がスーパースターの金使い込んだとかじゃ、責めないんだよな?!?!笑
だって、ルイちゃんがやってることは9割くらい変わってないからでっせ。
シバさんがアマを殺したんだと察して動揺したルイは、足がつきそうな証拠となるエクスタシーのムスクを全部捨てて、証拠隠滅。それは撲殺事件で警察に追われるアマの赤い髪をアッシュに染めて、長袖着させて、そばにいる人がいなくならないようにって、アマにしたこととおんなじ事。
その時も、アマのこと愛してるからそうしたっていうより、平穏が保たれるためにやった事。アマを失って茫然自失になるルイは、「死んでこんなに悲しいって、もしかして愛していたのかもしれない」と自問するも、自分を囲ってるシバさんとの生活がこのままなように、証拠となりそうなムスクを全部捨てたって、読める。
芥川賞の審査員の河野さんは“(アマの死後)二人の絆の強さを陰画の形で見せられる”というけれど……ルイはその感情の上に発見した不都合な真実に対してもフタをして生きていく。
で、気持ちのつじつま合わせのために、アマの愛の証を粉々に粉砕して、飲み込んじゃう。
“──シバさんが寝息をたてると、私はリビングでビールを飲んで、あのアマがくれた愛の証を、また眺めた。私は物置になってる玄関脇の棚をあさってトンカチを手に取った。二本の歯をビニールとタオルにくるみ、トンカチで砕いた。ボス、ボス、という鈍い音が胸を震わせた。粉々になると、私はそれを口に含んで、ビールで飲み干した。それは、ビールの味がした。アマの愛の証は、私の身体に溶けこみ、私になった。”
ポッドキャストの読書メンバーで、唯一蛇にピアスが大好きだという西川さんは、「いーんだよ。だって、ほら、書いてある。『私に、なった』」という。へっ???
(それって、アマは私になったから、もう生きてる人間である私の便宜が最上位です!とも読めるんですが……)
これで愛を描く小説として芥川賞なのか……?!
じゃあやっぱり、ルイの成長譚?でも、所有の落胆を卒業(克服)し、なんとなくから意思を持って生きると成長したはずのルイの「現実的な」選択は、アマ殺しには片目をつぶってシバさんと一緒にいる、って、めちゃ矛盾しませんか。恋愛物語と言われるよりは、成長譚としてなら読める、という読み方の方がまだわかる……のだけど、でもそれにたいしてやっぱりツッコミたくなってしまう理由は、ラストシーンにも。
アマの死後、順調にいっていたスプリットタン(舌をピアスで拡張していき、先端を裂く)が完成する直前で熱意を失ってしまったルイは、拡張をやめたがために舌に残った穴を水が通る体感を、「私のなかに川ができた」とシバさんに伝える。
これは、生きている実感を持てないと暗に言っていたルイが、自分を傷つけなくても生の体感を持てるようになったことをふわっと香らせる言葉。
でも続くのは、「00Gに拡張したら、川の流れはもっと激しくなるんだろうか」という文章。
そう、スプリットタンにしなくてもいいやと、自分の意思で拡張をやめ、結果、川ができた。その川は、自分の意思ゆえの、川。でも、その川の流れの実感を感じたくて、結局夢想するのは、拡張(笑)。
って、痛みを感じなくても(身体改造しなくても)生きてる実感を持てるようになったということかと思いきや、変わってねーじゃんww となんか堂々めぐり感が。小説に堂々巡り感はないのだが、解釈が堂々めぐる。。。
と、そこに、まったく新しい物語説が生まれます。
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『夜更かしの読みあかし』の蛇にピアス回は魔界的に面白い
ポッドキャストで、ふと大島さんが言った。
“この物語の主役って、本当にルイなのかな。”
???!!!そらそうでしょ???な私を尻目に、彼らの談話は進む。
そう、彼らはこう読むのである。
大島)「これは、ルイの物語じゃない。作者にとってルイは本当の主役じゃなくて、ルイの見た、シバさんとアマの物語を伝えるためのストーリーテラー、媒介者的な存在なんじゃない?」
永井)「そう、それならわかる……ルイが薄いのも」
大島)「これは、届かない片思いの話なんだ。シバさんは、アマが好き。いじめたい、好き、だけどアマにそんなこと言ったら、引かれちゃって、冗談やめてくださいよ、って言われちゃうから言えない。そこは絶対的に届かないから、アマの身代わりにルイに手を出す。別に、ルイを取り合ってるわけじゃないんだ。肉体的にはルイに挿入するけど、アマの女だからルイを代わりに抱いてるだけ──それって、すごい現実にあること」
ぞぞぞ。と思ったら、こんな記事を見つけた。男の子に片想いしている男の子が、彼と自然に一緒にいる時間を増やしたいがために、性的な興味があるわけじゃなかった女の子と付き合う話。
ページをめくっていた永野さんが、言う。
ねえ、ほら、見て。(ルイがシバと初めてセックスする場面)
『なあ、アマってどんなセックスすんの?』って、聞いてる。
そうだよ、最初からアマにしか興味ないんだ……。
でも、なんで殺したんだろう?
アマが警察に追われてるって気づいて、殺したのかもしれない。大事なアマが国家権力に取られるなんて考えられない。だから、誰にも取られないように
でも元々、シバさんって、人の形を変えていいのは神だけ、そういう価値観を持っている人じゃない。だから人を殺すなんて、超えちゃいけない一線。それを踏み越えるってことは、彼にとっては、心中と同じことだった。だから、その後、変わってしまう。アマを殺した後、ルイだけじゃなく、シバさんも変化するのは、それは彼にとってはもう余生だから
だから、腑抜けになっちゃうんだね。柴田になっちゃう。w
芥川賞の審査員たち、みんなやたら『哀しみ』『哀しみ』っていうんだよ。
──“一人称の持つ直截さが存分に活用された末に、殺しをも含む粗暴な出来事の間から静かな哀しみの調べが漂い出す。”(黒井千次)
──“作品全体がある哀しみを抽象化している。そのような小説を書けるのは才能というしかない”(宮本輝)
でも、その「哀しみ」って、ルイの哀しみじゃなくて、シバさんの哀しみなんじゃないかな──。
変態性って、楽しそうだけど、苦しいですよね。
本当に????もうここまでくると二次創作じゃね、と思うくらい違う物語に聞こえてくるんだけど、今度はそこを読むぞと思って読むと、驚くほどに、矛盾してないんですよね、本当に。むしろ、今まで気づかなかった文字が浮かび上がってくる、そんな感じすらする。
入れ墨を彫る前日の過ごし方を指南されて、「大丈夫っすよ。俺がルイの面倒見ますから」と言ってシバさんの肩を抱く、アマ。肩抱くか、普通?その距離感で?
desireの帰り道、アマとルイとシバさんの三人で居酒屋に行くシーン。シバさんは楽しそうで、二人でいる時には決して見せたことのない笑顔をしていたというルイの心のうち。へぇこの人こんな顔するんだと、あまりに淡々と通りすぎ、気にも留めなかった箇所、だったけれど。
ルイはアマの写真なんて持ってなかったけど、警察に捜索願を出すとき、シバさんはアマの写真を持っていた。アマに入れ墨を入れた時、悪ノリして上半身半裸で撮ったとルイに言う。
石柱の間を、私の知らない風が吹きすさぶんでいく感じが、した。
蛇にピアスって、視点を変えるミステリー小説だったの……?
『哀しみ』が漂う理由
理解できなくてレビュー散々読み漁ってきたけど、こんな解釈聞いたの初めてだわ!!!!と興奮しながら、芥川賞の選評をもう一度読んでみた。ある言葉の前で、目が止まった。
"──作品全体がある哀しみを抽象化している""
虚無、気だるい、厭世的な世界観。生きることに対するルイの漠然とした哀しみなのかな、って、思ってたんだけど。
あるって、何?
「届かない愛」の哀しみ?
アマは、ルイにちょっと片想い。(裏切られてるから
シバさんは、アマに片想い。(言えないから
ルイは、死んでしまったアマに片想い(死んで初めて大切だったと思うから
誰も、想い合えていない、そういう、三者三様の届かない愛の哀しみでもあるのかも。。。
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ここまで考えて、最初のわかんなかった感からしたら、ユリイカ!みたいな感じだった。最初の狐につままれた状態からしたら超味わえてしまい、すごい充実ですっかりわかった気になってた、のが、7合目くらい。
まあ、私は読書会の読み方とも、また少し違う最終的な読み方をしたのだけど。私はルイにシバさんはたいして興味がなかった、とは思わない。最初はアマの彼女ってだけの理由だったかもしれない、でも、それだけで結婚しねえ?とか言わんやろ流石に。それで指輪とか作る?それは何かをdevelopしてしまったからと思う。シバさんの、優しくなっちゃう、毒気が抜ける、Sっ気が抜けちゃった変化は、アマの喪失によるものと、ルイへの愛情の半々なんじゃないのかな。
なんて思って、お風呂上がりにまたパラパラページをめくっていた頃、最後に、ふと目を入れるページを何の気なしに読み、ああ、私今まで何を読んでたんだろう、と思った。
“いくよ……シバさんの言葉とともに、私の背中に懐かしい痛みが走った。
入れ墨を入れたあの時、あの時私は一体何のために入れ墨を入れたのだろう。今、私はこの入れ墨には意味があると自負出来る。私自身が命を持つために、私の龍と麒麟に目を入れるんだ。そう、龍と麒麟と一緒に、私は命を持つ。”
この物語は、一人の少女が、死に吸い寄せられていくフォースと、生きることに向かうフォースの狭間で、淵に落ちる手前で引き返し、生きることを選択する、小さな希望の話を描いているんだと。恋愛物語の中に小説の核があるのではなく、あくまでルイの人生のなかを通り抜けていく恋愛(達)であって……
ルイは、そこまでずっと、死に吸い寄せられるように生きていたわけですね。10代なのに、もう長くはない、いつまで生きられるのだろう、そう思って生き急ぐようにスプリットタンを完成させようとする。光の当たらないところにいたい、輝きとか生とか、セレナーデとか祝福とか、幸福の象徴とか全部拒絶して。そういうメンタリティ、精神テンポで生きていた人が、自分をこちら側に引きずり戻す瞬間。
生きてる実感が持てなかった、意義とか意味とかから遠かったルイが、「生きていく」という刻印をする瞬間。命を持つ。龍と麒麟と一緒に、命を持つ。それは、愛された記憶や愛した人との関係を強さにして、生きていく刻印を自分にする瞬間。そう読むと、少し感動的。
好きだ、嫌いだ、嬉しい、悲しい。そういう名前のつかないような感情を描き出すことこそが文学であり、優れた小説なのだとどこかで聞いた言葉がふと浮かんだけれど、この小説が、人間の生に対する姿勢みたいな、名前が付けづらく捉えどころのない──まあ、それですら、無気力とか言っちゃえば、言葉にはなるけど──意識や意思みたいなものの変化を描いていると思うと、私は一番しっくりきた。「純愛」と、言われるよりも。
それも、自己嫌悪の消滅願望からの、いきなり情熱!みたいなリープじゃなくて、一歩未満の、半歩。でも、その一番わかりやすい形で、切らないところ。そこで切った方が内面の変化の兆しは対照的に見えるけど、そういうわかりやすく「イイ終わり」にしないで、シバさんの殺人の証拠隠滅みたいにまたしょうもないことにくるんで終わる(だからわかりやすい成長譚には見えない)というのがこの小説が人の闇に響く理由なのだと思う、んだけど。いきなり天晴れで終わったら、それこそダサいよね。このぜんぶの上に、歯を砕いて飲むところを見ると、なんか泣きそうな気持ちにすらなるのですよ。あんなにわかんなかったのに!!!!
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