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帰国子女の性格特性

by 古家 淳

 「『帰国子女』という用語をめぐって」という記事をアップした。そのついでに僕が以前に書いた「『帰国子女』の定義」という文章もアップした。これは1985年8月に「私情つうしん」第2号で「パラダイムの逆立ち」というシリーズの1本目として書いたものだ。
 こちらの「帰国子女の性格特性」は、「パラダイムの逆立ち」の4本目として、1998年6月に発行した「私情つうしん」第16号に掲載したもの。

 ちなみに「私情つうしん」とは、「数人の元・“帰国子女”のワクワクする思いから生まれ、海外/帰国子女や異文化、コミュニケーション、アイデンティティ、教育などの話題から輪を広げる」ニュースレターで、2002年に第24号を出して以来、第25号が準備中になっています。


 「個性が強い」「積極的」「自己表現に長けている」……。帰国子女の「特性」として何回聞かされてきたことだろうか。「国際感覚が豊かである」……おいおい、「国際感覚」ってなんだ?! そんなわけのわからないものは税関で没収だ。
 議論の焦点は、たとえば冒頭の三つのような、言ってみれば性格の問題である。「誠実でボランティア精神に富んでいる」とか「社交性がある」とか「発想が柔軟である」などとも言われる。不思議なことにこういった帰国子女の「特性」はいずれにせよ「日本的ではない」つまり西ヨーロッパや北米のいわゆる西洋的な文化によって生み出されるらしい人物像を思い出させる。端的に言えば、大多数の標準的日本人が白人を見るとアメリカ人だと思う、そのイメージだ。つまり帰国子女とは、日本人だけれどもアメリカ人の性格を持っている人物のことだ、と言っているように聞こえる。もちろん、あくまでもステレオタイプとしてのアメリカ人、あるいはガイジンである。
 なるほど。帰国子女は外国の自由闊達な雰囲気の中で育ったからガイジンのような性格を持っている。さすが、個性を尊重し、自由と平等を重んじる国の教育は違う。日本も諸外国に学び、もっと民主主義を大切にしなければならない。画一的で没個性的な人間を育てる日本の教育は追いつけ追い越せの高度成長時代にはよかったかもしれないが、21世紀(もう、すぐだ!)の日本には創造性豊かな人材が必要だ。ビッグバンに生き残るためには彼らに学ばなければならない。
 なるほど。面と向かって反論するなんて失礼な。帰国子女なんてただ外国かぶれしたヘンな日本人じゃないの。大和魂はどうした。謙譲の美徳は忘れたか。人の和を重んじる日本社会には向かないよ。
 いずれも耳にタコができているセリフだから、一気呵成にキーボードが打てる。なんともまぁ、まるで神風連と鹿鳴館。オリエンタリズムの戯画たる日本人が金髪碧眼コンプレックス丸出しでガイジンを前にして、持ち上げるにしても見下げるにしても同じコインの両面だ。
 それがおのれの特性であると言われて迷惑するのは帰国子女である。このままでは金太郎飴の東洋とステレオタイプの西洋の狭間に落っこちてしまう。で、本題に入る。
 帰国子女が一定の性格特性を持っている傾向が強いというのは認めてしまおう。特性研究の意図や方法にいちゃもんをつけるのも、そもそも性格というものが三つ子の魂百までで永遠に変わらないものだという発想に難癖をつけるのも棚に上げよう。フランス帰りはフランスっぽく、イギリス帰りは英国の紳士・淑女らしく、南洋育ちは開放的で、北国育ちは質実剛健というような例もたしかに多く見受けられるし、住んでいた国の文化的・気候的・気質的影響が皆無だとも言わない。だが、帰国子女の性格的特性にはガイジンの世界に住んでいたことによる以上に重要な要因があるのではないか、と思うのだ。
 それは何かと言うと、どこでもよい、その国において「異人」として住んでいた、あるいは「自分の国」ではない国に住んでいた、ということだ。そこでは、隣の家の子どもと同じような生活をし、同じような将来設計をし、同じような生き方をすることができなかった、という事実だ。隣のミヨちゃんがこんなおもちゃを買ったから私にも買って。向かいのタア君が塾に通い始めたからぼくも行く、あの会社は有名だからそこに奉職すれば将来も安泰だろうという安直な発想が通用しない、そういう暮らしを経験してきたということだ。
 海外生活をしている家族は、家庭で何語を使うのか、どうやって子どもに現地の言葉を覚えさせるか、どこの学校に通わせるか、いつ日本に帰すか、テレビ(ビデオ)で何を見せればいいのか、ということにいちいち判断を迫られる。それどころか、新しい町に居を構えたその日から、夕食の材料をどこへ行って何と言って買ってくればいいのかということにも、どうやって電車やバスに乗るのか、タクシーに何と言えば希望のレストランに連れていってもらえるのかということにも、必死で向かい合わなければならない。子どもだって同じだ。授業中にトイレに行きたくなったらどうするか。隣に座っている子がしきりと話しかけてくるが、何を言っているのか。かくれんぼの仲間入りができたとしても「見~つけた」と言えなければいつまでたってもオニのままだ。現地ではオマエは日本人だと言われ、帰国すればオマエはガイジンだと言われる。
 帰国子女に聞いてみるがいい。その多くが頻繁に家族会議を開いていたことを語るだろう。その多くが「自分はナニジンだろうか」と本気で悩んだ時期のあったことを語るだろう。
 振り返って国内で育った学生に聞いてみたい。どうやって自分の進学先を選んだか。自分の国籍が持つ意味を真剣に考えたことがあるか。自分の表現が、目の前の相手に通じているのか通じていないのかわからない状況で、心を通わせるために全知全能を傾けて言葉を探したことがあるか、と。
 意識的に、自覚的に自分を問う。その時その時に許される選択肢をできるだけ数多く見出すために能動的に情報を集め、それぞれのもたらす結果を予測し、判断をくだす。自分の夢や希望、願いを定め、それを周囲に説得して実現への道を歩む。レールがなければ、自分で敷く。そうしなければ生きていけないほどの危機を乗り越える。
 個性的。自己表現が強い。積極的。柔軟な発想……。他人が踏み固めた道を歩んでいれば、そんなことにはならない。もちろん、たとえ帰国子女であってもそんな危機に出会わなかった幸せな者はこういう特性とは無縁である。また、たとえ帰国子女でなくとも、なんらかの理由で不幸にも自らのアイデンティティを自問しなければならなかった者は柔軟で積極的な個性を表現しつつ生きていかなければならないという性格的な欠陥を身につける。自分に誠実でなければならないという十字架を背負う。西洋も東洋も、そこにはまるで関係がない。
 もしもこの十字架を背負っている者の名を帰国子女と呼ぶのであれば、外国生活の経験がなくても帰国子女の名に値する性格特性を持った人が育つ。ある友達は、「私って、もしかすると生まれながらの帰国子女?」と言った。その時点ではまだ国境を越えた経験のない人だったが、自分が何者であるかをよく知っている、素敵な女性であった。

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