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岩下慶一:LGBT、トランスジェンダー、ターフ(TERF)―世界を読み解く用語解説

自民党の法案提出によって多くの人に知られるようになったLGBT。しかし、言葉の正確な定義を理解している日本人は非常に少ない。Lはレズビアン、Gはゲイだということは知られていても、Bのバイセクシュアル(両性愛者―男性・女性の両方に魅力を感じる性的嗜好)についてはあまり馴染みがないかもしれない。ましてやT、トランスジェンダー (Transgender)に至っては、正確な認識を持つ人はほとんどいない。

トランスジェンダーとは、出生時に割り当てられた性とは反対の性別を持つことを自認する人々のことである。男性として生まれてきたが、精神的には自分は女性という認識を持つ、あるいはその反対のケースがこれにあたる。ゲイやレズビアンは性愛の対象によって決まるのに対し、トランスジェンダーは自身の性別認識の問題であることが、理解を難しくしている理由の一つだ。

もう30年近く前の話になるが、筆者の知人が「自分は肉体的には男性だが、精神は女性であり、今後は本来のアイデンテティティーに従って女性として生きる」と宣言し、服装も含め、女性として日常生活を送り始めたことがあった。米国でLGBTという言葉が生まれたのは1988年だから、トランスジェンダーという概念はすでに存在していたが、米国社会においてさえ人口に膾炙しておらず、当然筆者は知る由もなかった。

彼の周囲の人間は戸惑った。化粧し、スカートを穿くようになった彼(彼女というべきだがここでは“彼”とする)に対する風当たりは強かった。多くの友人は、善意から元の生活に戻るよう忠告した。筆者もその一人だったが、彼は頑として受け入れず、自分にとってはこれがもっとも自然な生き方なのだ、ときっぱりと言った。事情はよく分かったがこのままでは誤解も受けるだろうし、女性として生きるのはプライベートな場だけにしたらどうか、という私の提案には、「本来の自分を隠しながら生きるのは批判を受けるよりも苦痛だよ」と笑って答えた。環境デザインという比較的リベラルな業界に身を置いていたこともあり、幸い彼が強いバッシングを受けることはなかったが、それなりの差別があったことは想像に難くない。
あれから30年、時代は大きく変化した。性的少数者の権利が公に語られ、LGBT理解増進法案が推し進められるまでになった。喜ぶべき進歩だが、国会提出の段階でいくつか議論が噴出している。その一つが、法案の名称でもある“性自認の多様性に関する理解の増進に関する法案”という部分。今月提出された修正案では“性自認”が“性同一性”に差し替えられていた。

“性自認”か“性同一性”か
トランスジェンダーの重要なタームであるGender Identityには二つの日本語訳が存在する。“性自認”と“性同一性”だ。厄介なことに、二つの訳語は微妙に意味が異なる。“性自認”はあくまで該当人物の主観によるもので、その人が自分は女性(あるいは男性)だと主張するならばその性別が認められる。一方“性同一性”は2003年に成立した“性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律”から生まれた用語で、医療的な意味合いを持つ。端的に言えば、トランスジェンダーか否かの判断は、本人ではなく医師によって為されるという解釈も成り立つ。実際、自民党内では、“性自認”としてジェンダーを自己申告できる状況を危惧する声もあり、その辺を配慮した修正だったのだろう。

LGBT団体はこの変更に対し、自分の意志で性的アイデンティティーを決められないのは不合理だとして大きく反発している。第三者の認定が得ることができなかったトランスジェンダーが、公衆浴場やトイレなどの女性施設から締め出される可能性もあるからだ。
では今回の理解増進法案はアンフェアかというと、必ずしもそうとは言い切れない。
自己申告である性自認を認めてしまうと、性犯罪目的で女性トイレに入る“偽トランスジェンダー”が現れる可能性はある。スポーツの世界でトランス女性をどう扱うかも悩みの多い問題だ。トランスジェンダーが女性の種目に出場することを認めるのか。女性を自認しているとしても、男性の体に宿る筋力の圧倒的な優位性は覆らない。また、個人の栄達を目的としてトランスジェンダーだと主張するアスリートが現れることも十分考えられる。それをどうやって見分けるのか。

実はこうした問題には欧米でも決着がついていない。上に挙げた懸念はLGBTというコンセプトが生まれた米国でもトランスジェンダー支持派、反対派の間でホットな論争になっている。反対する人々を、トランス排除的ラディカルフェミニスト(trans-exclusionary radical feminist)といい、頭文字をとってターフと呼ぶ。ハリー・ポッターの作者であるJ.K.ローリングは、男性機能を持つトランスジェンダーが女性用トイレを使うことは、“女性の権利の侵害”だとして反対を表明し、ターフの代表格とされている。喧喧諤諤の議論は今年に入ってますます過熱している。

多様化の時代に誰もが暮らしやすい社会を目指すのは当然のことだ。ただ、LGBTは短期間で議論が成熟する問題ではない。トランスジェンダーやターフという言葉の意味と、双方のロジックを理解し、じっくり話し合うしか最適解を見つける方法はない。現政権が広島サミット会期中にまとめようと考えているなら、それはあまりにも愚かである。

(書き下ろし)


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