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岩下慶一:書評:Chatter(チャッター): 「頭の中のひとりごと」 (東洋経済新報社)

日常、人は誰でも心の中で自分とChat(おしゃべり)をしている。いわゆる自己対話というものだ。「もう9時か、さあ仕事に取り掛からないと。ああ、昨日はよく眠れなかったな、お陰で頭がスッキリしない。最近いつもこうだ。10時半から会議があるな、A社の案件について聞かれるだろうから、答えを用意しておかないと。進捗が遅いと思われたらまずいからな。あれ?雨か。まいったな、傘持ってきてないぞ。またコンビニでビニール傘買わなきゃならんのか。今年になって何本目だ?ほんとに馬鹿馬鹿しい出費だよな。こんなんだから金が貯まらないんだ。。。」こういう他愛もない会話を私たちは延々と、起きている間ずっと続ける。 
こうした自己対話はまったく普通のことだし、人間が自分という物語を保ち、自我を継続するために必要不可欠な作業でもある。心のおしゃべりは、"私たちが成熟し、自らの価値観と願望を理解し、継続的なアイデンティティに根を貼り続けることで変化と逆境を乗り越える助けとなる"(本書51ページ)ための必須の作業なのだ。だがそれには、”悲観的になりやすい”という困った傾向がある。そして、何かのきっかけで思考がループを形成してしまうと、つまり一つの考えに囚われてしまうと、私たちは厄介な”沼”にはまる。 本書の著者であるイーサン・クロスも沼に囚われた一人だ。
心理学者であるクロスは、ある日、差出人不明の手紙を受け取る。それは彼に対する殺害予告だった。クロスは恐怖に囚われ、彼の心は考えられる最悪の状況、つまり何者かに殺される可能性を途切れることなく呟いて彼を追い込んでいく。「警備会社に連絡すべきか?銃を買った方がいいか?それとも引っ越すべきか?でも仕事はすぐに見つかるか?」クロスはバットを握りしめて眠れぬ夜を過ごす。単なるイタズラである可能性が極めて高い、という事実には目がいかない。こうなってしまうと心のささやきは最悪の敵になる。人を不安の沼に引きずり込み、正常な判断力を奪ってしまうのだ。
クロスのケースほど深刻でなくても、こうした心の会話のループは誰でも経験があるだろう。例えば、家族や職場の同僚のふとした一言が一種のトラウマとなり、同じ思考を繰り返すようになる。一度思考パターンが出来上がると、心の声はその思考を強めることだけをつぶやき続け、あなたの信念はますます深まっていく。
本書はこうした自己対話についての研究の歴史をたどりながら、これを深掘りしていく。自己対話のメカニズムと重要性を解説し、非生産的なループに陥った時の対処法も紹介する。傍観者の視線を持ち込む、心の会話からズームアウトする等、その原理は以前に紹介したラス・ハリスの著作にあるものと基本的に同じだが、背景となる多くの実験やエピソードが数多く紹介され、心理学が自己対話をどう捉えてきたか、その変遷を知ることができる。訳文も非常にテンポが良く、私はほとんど一気読みしてしまった。心理学の教養書としても、自己啓発を目的としたハウツー本としても読める秀逸な一冊。 

自身のブログ 未来ラボ https://happinessisawarmgun.jp から転載


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