現代ポーランドの歴史・地理・社会的背景(3)

共産主義から西欧復帰へ
ポーランド統一労働者党による実質的一党支配、共産主義、計画経済が45年間続いたことで、国情は

「社会は効率的で確かな労働、独立した考え方を忘れてしまい、非常に多くの者が企業精神や困難を自分で克服する能力をも失ってしまった」 (Eisler. p224)

と形容される状況に陥った。

計画経済もまた体制末期には窮地に追い込まれている。状況改善を図った当時政府は、80年代に経済の部分的自由化を試みたが、国内の危機的な状況は一向に改善せず、皮肉にもかえって抜本的改革の必然性が改めて強調されることになった。

経済システムが崩壊しつつあるなか、当時政権執行部に対する市民の不満は「連帯」運動として結集された。政府はこれに対し、徐々に拡大する市民運動を弾圧することで辛うじて政権の安定化を図るしかなく、一時は戒厳令発布に至るなど情勢は深刻化。だが、最終的には悪化し続ける経済状態や粘り強い活動を続ける市民の前に一定の譲歩を許さざるを得なくなる。こうして、政府と市民代表が一つのテーブルについて妥協策を協議する円卓会議が開催されることとなった。

同会議の最重要決定事項は、共産主義国家では前例のない一部自由選挙の実施であるが、同決定が意図せず、非共産主義政権誕生へ向けた第一歩となった。政府代表者と反体制派が集い内政安定化について話し合われた円卓会議自体は政府打倒的な性格はもっておらず、あくまで共産主義体制を維持したまま内政状態の改善を目指すための譲歩策を話し合う場であった。

しかしながら、同会議がポーランド民主化のスタートラインとなったことは否定できない事実である。円卓会議から1989年の民主政権発足までの過程においても、話し合いにより民主化への道を決定したポーランド国民の英知は歴史上比類のない出来事であり、一連の過程は「無血革命」であったともいえる。また、円卓会議の開催、さらに遡れば、労組「連帯」の誕生は、東欧諸国民主化の端緒となった点で欧州の安定化に大きく貢献したという点でも非常に意義が大きい。そして、1989年の体制移行は、ポーランドの西欧復帰プロセスの出発点となったことはいうまでもない。

参考文献

Eisler, Jerzy; Szwarc, Andrzej; Wieczorkiewicz[1997], Dzieje polityczne ostatnich dwustu lat, Wydawnictwa Szkolne i Pedagogiczne: Warszawa

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