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「分かりやすさ」の呪い:ドラマ「逃げ恥」への批判から考える

2021年1月2日の夜、2016年の人気TVドラマ「逃げるは恥だが役に立つ(逃げ恥)」の続編として、スペシャルドラマ「逃げるは恥だが役に立つ:ガンバレ人類!新春スペシャル!!」が放映され、SNSでも大いに盛り上がりました。

その中でツィッターで以下の投稿を見かけたのですが、私も番組のレビュー内の気になる表現があったので、しばらくやり取りをしました。

私がTVドラマ「逃げ恥(2016年)」の批評記事の中で気になった言葉が「文化の政治化」という言葉です。まず、政治と切り離された「文化」なんかあるんでしょうか?仮にそんなものがあるとしたら、日本のTV(の建前)くらいではないかと思いました。

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このレビューを読んで、最近の日本のエンタメ業界にありがちな「全員を喜ばせる作品」にしなければならない、という風潮に大いに疑問を感じました。

実際、「逃げ恥」の脚本家の野木亜紀子さんは、エンタメ作品と社会の関係性についてインタビューで次のように答えています。

【CINEMA ACTIVE! 撮る人々】脚本家・野木亜紀子が描くステレオタイプを越えたリアルな女性像

―自分が書いた作品が「社会を変える」とは言わないまでも、ある程度は「社会に響いたらいいな」という感覚はお持ちなんですか?
野木さん「何のためにこれを世に出すのか?」みたいなことは割と普段からよく考えるんですよね。新しい企画とか、原作の脚色とかお話をいただいても、「これを2020年の今、出す意義は?」と考えるし、逆にそれが無いなら「やる意味あります?」とつい思ってしまったりもする。それって裏を返せば、やっぱり何かを届けようとしてるんだろうなと。

「分かりやすい」「伝わる」という言葉がこれほど、強調されるようになったのも近年の話だと思っています。しばらく日本にいなかったので、いつ頃から始まったのか分かりませんが、日本人の国語力&経済力の低下と確実に結びついています。以前はエンタメ業界も、もっと余裕があったはずです。

エンタメだけでなく、報道でも学問でも「分かりやすい」という言葉が呪いの言葉のようになってしまっています。私は現在、アカデミック・ライティングを教えているのですが、休憩時間に受講者の大学院生から「分かりやすい文章」という話が出たので、「誰にとって分かりやすいか」ということが重要だということを伝えました。事実、新聞記事などで「分かりやすい」ということを心掛けるあまり、記事全体が小学生にも読めるような内容にまで易しくなっていて、突っ込んだ議論がないということもあります。

一方、研究者が論文発表で想定している読者はその分野の専門家であり、ターゲット層が明確に違います。また、ドイツで講義をしたときに、英語圏ではメジャーな研究テーマを取り上げたところ、ドイツではその研究テーマはまだ一般的に知られていなく、質疑応答でびっくりするような批判が飛んできて面食らってしまったこともありました。その時は司会を担当した米国人の準教授が丁寧に背景を説明してくれ、助け船を出してくれました。この経験から、アカデミック・ライティングの講義に「読者を定義する」というユニットを追加しました。

アカデミックでもマーケティングでも読者全員を納得させることは無理です。以前英国で開かれた学会の帰りに、たまたま電車で隣り合わせた英国環境庁の職員に学会の様子を伝えました。その学会は日本の大学が主催したもので参加者は日本人が多く、私の発表に対しても日本人の研究者と非日本人の研究者・学生の間で大きく意見が分かれました。電車の中で私は彼に日本人研究者の批判の手法(学会中ではなく、食事の時に日本語で異論を伝えてくる)への不満を訴えたのです。

彼は私にハッとするような一言を放ちました。彼によると「意見が真っ二つに分かれる」発表がベストなのだそうです。「全員がいい」と思うものは既に陳腐化が始まっている、そして、「大多数が反対」もまだ機が熟していないそうです。これには大いに励まされました。

「分かりやすい」という言葉は耳障りがいいかもしれませんが、すでに多くの人が知っている、見慣れている、経験しているから、「分かりやすい」だけなのかもしれません。今後何かを発信する時は「誰にとっての分かりやすさ」なのかを、今一度考えてみる必要がありそうです。

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