ペルーから日本に戻ってきた理由は「生きる」か「死ぬ」かの究極な選択だった

1995年6月26日。僕はペルーのリマを出た。出たというより、当時はまだ1歳だったため、正確には出された。まだ物心つくまえの出来事だが、話を聞いて驚くばかりだった。なぜ、南米ペルーを出なくてはならなかったのか。聞いた話と里帰りした際に感じたことをここに書き留めていきたい。そして、読者さんが改めて今の日本の素晴らしさに気づいて欲しい。

 始める前に、日本から飛行機でアメリカ、メキシコもしくはヨーロッパを経由してやっと辿りつけるのが、南米ペルーだ。ブラジル、チリなどの経済大国が隣国である。有名なところだと「マチュピチュ」、「ナスカの地上絵」があり、神秘的な国一つとして有名だ。

日本に来なくてはならなかった理由

 僕が住んでいたのはリマのラ・ビクトリア市で、地元のプロサッカーチームのスタジアムがあり、試合の度に賑わいを見せる街だ。歩けば、多くの人が「Ese Chino que hace aca」(ここで何をしているんだ、中国人)。2018年にペルーに戻ったが、これは街中で良く耳にするので、一種のコミュニケーションである。ちなみにアジア人のことを総称して「Chino」と呼ぶ。きっとアジア人=中国人と認識しているのだろう。人種差別ではないかと言われるが、中南米の多くの国では、黒人に対して、「ネグロ」とあだ名をつけて呼ぶ。これは差別ではなく、コミュニケーションの一つなのだ。逆にそれに対して、反発すると白い目で見られる。まさに常識が常識ではなくなる瞬間だ。
 
 話が逸れたが、ラ・ビクトリア市は犯罪が多発する地域で、治安が悪いで有名だ街並みは、鉄格子の家がズラーっとならび、家はコンクリートで、壁には小さな丸い後がついていたり、今にも崩れそうなヒビの入った家がある。ゴミは散乱し、街を歩く人は皆、ボロボロの服をきていることもある。鉄の販売人や自動車やバイクの修理をしている技術者のような人々が多かったため、おそらく作業着ではないかと思っている。
 
 そんな治安の悪いところで、僕の家系はパン屋を経営していた。僕の曾祖父さんが始めたパン屋は父親まで受け継がれた。治安が悪いという面でハードだったと思ったが、逆に地域の方には知られていたため、街の付き合いはよかったと祖父から聞いて、ラテンの暖かみを感じた。当時の僕は看板息子的存在で、毎日店の中で、歩き回っていた(きっとハイハイ)という。一見安全に見えるが、上の写真を見ればわかるようにスラムのような雰囲気があるのを皆さんも見てわかるだろう。

 1996年12月17日に起きた日本大使館立てこもり事件を皆さんは覚えているだろうか?僕が日本に渡ったのはこの年の6月であり、この事件は6ヶ月後に起きている。当時のフジモリ元大統領によるテロの鎮圧活動が盛んに行われていたのだ。それに対抗して、テロリストが元々山脈もしくは国境で活動していたのが、都心であるリマまで襲い始めたのだ。それはこの事件がある前からである。

 当時の様子を両親に聞くと、「外に出る時だけではなく、家の中にいる時も常に拳銃を持っていた」と言っている。街に出る時は、集団行動は絶対で、入ってはいけない地域を把握し、服装はなるべく暗いもので、ブランド品やネックレスなどの貴金属は身につけないことが絶対であったという。母親の友人は大きな丸いイヤリングをしていたら、背後から猛ダッシュしてきた男性に、イヤリングを無理矢理引っ張られたという。その後のことは読者の皆さんにお任せするが、それだけ治安が悪かった。ちなみに僕の父親は銃弾で足を打たれたことがあると祖父や叔父さんに聞いたが、父親は否定している。おそらく僕に気を使っているのだろう。そんな状況の中で、親戚が日本にいることもあり、パン屋さんを閉め、家族全員で日本に渡りました。

 ただ、これを聞くとペルーは危険な国だと思ってしまうと思いますが、現在は以前よりも治安は改善されています。ラテンはよく情熱的だと言われますが、言葉の通りだと思います。街中を歩いていて、逆に話しかけてくれるペルーは友達が増やしやすいかも?!なんて思ったりもします笑。

以上が、僕が日本に来なくてはならなかった理由です。他の理由で日本にきた人もいるので、今後このような記事も書いていきたいと思います!僕のように故郷を離れて日本にきた若者が劣等感を抱かずに、世界に一緒に羽ばたいていきたいが僕の願いです。それではまた! Chao amigos!



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