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「始まりの服」:『BRUTUS』の特集が胸を射る

久々に雑誌を購入した。「始まりの服」そのドキッとするタイトルに胸を射られ、迷わずに。仕事の為の情報収集とかトレンドチェックという目的ではなく、完全なる自分自身の抑えられない興味と意思で。

雑誌を買う事自体、実に2年振りくらい、そしてシンプルに「読んでみたい」と思わされて雑誌を購入した前回が、いつのことだったか思い出せないほど遠い昔であることだけは確かだ。

すぐにAmazonでkindle用に購入しダウンロード。本当は、紙の雑誌を手で感じ、指で一枚一枚ページをめくりながらじっくり読みたいテーマ。だけど、NY在住の筆者が読みたい熱が熱いうちにそれを目にし読むことができるのは、ありがたい事だ。

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自分の原体験から飛び石のような記憶を今日まで繋ぎながらページをめくる。

その時々に全て服と共に記憶があり、服と共に育ってきた事を思い出した。そして、自分で育てた服があり、自分を育ててくれた服があったことを思い出した。常にそこに服はあった。

そして未来も。

服はあくまで物体であり、その人を示し表す全てではない。しかし、服の選び方を見れば、その人がわかる。それはファッショナブルだとか、センスの良し悪しということではない。その人の意思選択のあり方を示す指針であり、行動そのものだからだ。

社会に出ると溢れる情報に溺れて頭でっかちになり、「こうありたい」「こうなりたい」とありもしない現実を追いかけすぎて、自分の大きさと比例しない大きな天ぷらの衣を身にまとい、大海老天になってしまっていた人も、自らに勝手に課してしまった役目としての重い鎧の様な服を着ていた人も、このパンデミックの1年という時間の中で、自然とその状態から解き放たれ、衣を剥ぐことができただろう。

コロナ前に戻るか戻らないか論などなどなどある。しかし、どう考えても以前には戻らないだろう。でも、それはそれまでの全てが変わってしまったり無くなってしまうわけではない。自分がそこにいて経験した事実の全ては自分の中に残り、そこから私たちは少しずつ前に進んでいく。

だけど急激かつ強制的に、しかも世界中が変化をするそんな時、下を見れば地面が見えない様なところで急に細いロープの上に立っている様に感じてしまうことがあるけれど、だからこそ自分の良い原体験やそれに基づいた自分の本質や根本に戻れる、それを促してくれる物体でありツールの「服」って大事だと思う。それを着ていたという脳裏に描くことのできる映像としての喜びの記憶、そして肌で覚えている優しい記憶も。

肌は第二の脳、あの時の自分をしっかり覚えてるから。

明日は春分の日、今年は3月20日。陰陽のバランスがイーブンになる。平たい気持ちで自分の原点記憶の「始まりの服」を思い返し、ここから始まる未来への自分の服を気負いなく整える日にするのはどうだろうか。

「始まりの服」は、新品だろうが、古い服だろうが、別に構わないと思う。それは、その人それぞれのあり様だから。何より大事なのは、下駄を履かせていない本当の自分を認識した上で、そこからまた新たに未来を見つめて歩き出せる小さいな勇気を持てて、その背中をそっと押してくれる、心地よい服を選ぶこと、それだけだ。

言い方を変えれば「本当の自分に戻れる服」でもある。

この春、服との関わりを改めて愛おしく感じる。

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