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境界線を引く自分、境界線を越えていく自分

11月28日(土)



今週は、仕事の相手に対してプライベートな話をした上で自分の考えを伝えたり、趣味の集まりではこれまで自分から言ったことがなかった仕事の話をして、小さいけれど新しい一歩を踏み出したように思える一週間だった。


前者は、自分の苗字が二回変わって、そのときの感情や体験から、選択的夫婦別姓について考えることの話を仕事相手にした。
後者は、詩の教室の朗読会で、同業者の方が私の朗読がよかった、と伝えてくださったので、自分も同業である旨をお伝えしたのだった。


これまで私は、仕事をしている自分とプライベートの自分は別物、と切り分けて考えるようにしていた。数年前に転職して、自分が一番得意なことを仕事から切り離したこと、そして個人名義の同人誌を作るようになったことで、その割り切りはより一層きっぱりしたものになった。
ストレスフルな仕事にプライベートを圧迫されないように、心をつぶされないようにそうしていた、という面もある。
けれどそれ以上に、「この職業に就いている人はこういう人間であるべき」という自分の中の固定観念があって、同人誌に書いているようなプライベートな自分、例えば結婚がうまくいかなかったりだらしなかったりする自分を仕事の場に持ち込んじゃいけない、と思っていた。自分の職業や仕事の内容について日記やエッセイで言及するときには、特定されないようにフェイクを入れまくっていた。文フリなどで職業を聞かれてもはぐらかすことのほうが多かった。


だから、職場で個人的な話をするのも、詩の教室という創作表現の場で自分の職業の話をするのも、これまでの私だったら考えられないことだった。自分が勝手に引いていた、
仕事の自分/プライベート(創作・表現)の自分
というセンターラインを、完全にとっぱらったわけではないけれど何歩分か越境してみる行為。
ラインを引いたのも私だし、ラインの右側にいるのも左側にいるのも、どちらも私なのだ。きっぱり分けるように誰か強制されたり、別の誰かの人格になって働いたり創作をしたりしているわけではなかった。というか、どちらも文章を読み書きし言葉で伝えたり受け取ったりすることを指向している点ではどちらの自分も地続きの存在だった。感染症流行中に日記をひたすら書いたり、働き方が変わったりしたことで、私はそのことに少しずつ自覚的になっていったのだった。

積極的に公私混同したいわけではないけれど、公私の境界線が曖昧になったっていいし、時には境界を曖昧にしてそこを踏み越えてみることで、私にしかできない仕事のやり方が見つかったり、新しい表現が生まれたりするのかもしれない。と思った。

いつか、私がしている仕事のことを、真正面から文章に書いて発表してみたい気がする。退職してからになるかもしれないけど。



今日は仕事をめちゃくちゃ頑張るつもりだったけれど、17時頃力つきて退勤。成城石井で赤のスパークリングワイン缶とカッテージチーズを買って帰り、久々の晩酌をする。今晩から明後日まで、諸々の原稿〆切や文フリを乗り切った自分お疲れさま会と銘打って贅の限りを尽くすことに決めていた。スパークリングから泡盛に切り替えて、カッテージチーズとドライフルーツを和えたものやハーゲンダッツやポテトチップスを食べた。

梶本時代さんの『怒り 引くほど短気な看護師が己と向きあう365日』を読了する。

著者が、短気な自分と向き合い、アンガーマネージメントについて学び、自分のコミュニケーションの課題を一つずつ明らかにしていく。看護師としての自分の隠しておきたいような失敗談も、喧嘩のようになってしまう家族との会話も、ありのままに書いていた。「向き合う」って、言うほど簡単ではないけれど、その血が滲むような作業を、文章を通してやっているのがひしひしと伝わってきた。自分の人生を、対人コミュニケーションをよりよいものにするために、境界線の遥か向こうにある新しい自分を素足にダッシュで掴みにいく梶本さんの姿勢を本当に尊敬している。
梶本さんの本の裏表紙の一文を毎回楽しみにしているのだけど、今回の裏表紙は、添えられた写真も相まって最高だった。

#日記 #エッセイ #仕事 #創作 #梶本時代

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