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差別について思うこと

第96回アカデミー賞で、『哀れなるものたち』の主演女優エマ・ストーンさんの、『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』主演女優ミシェル・ヨーさんへの態度が問題になったのは記憶に新しい。
きっと日本人なら、アジア人なら誰でも、エマ・ストーンさんのファンであったとしても「え?」と思ったであろう出来事だったろう。

斯くいう私もエマ・ストーンさんが好きだ。
『ラ・ラ・ランド』も『女王陛下のお気に入り』も、『クルエラ』も好きだし、『哀れなるものたち』も大好きだ。

ひとの能力と人柄は全くの別物だというのは頭では理解していた。しかしその差別感情を直に目にすると言葉を失った。

しかし、これは本当に差別「感情」なのだろうか?というのが今回のお題目だ。

そもそも日本に生まれ育っている私にとって、「アジア人差別」というものがピンと来ない。
後述するが私は日本における被差別民だ、しかしそれでも「アジア人」という括りで不当な扱いを受けることが実感としてわからなかった。

例えば。

前の夫との新婚旅行先、バリはそもそも同じアジアにある国だし、そもそも親日国だ。
離婚後に父と行ったイタリアでも、地下鉄の乗り換えを尋ねた一般市民のお姉さんからとても良くしてもらっている。

だからそんなものが存在するということすら知らなかったのだ。

しかし一ヶ月ほど前、その認識を改める機会があった。

そのとき私は仕事帰りで、職場の最寄駅から自宅に帰るため電車に乗ろうとしていた。
券売機でSuicaにチャージをしている横で、観光客と思しき白人男性二人組がおろおろしている。

「何処に行きたいの?」

私は英語で聞いた。
中退したとはいえ、外国語大学に通っていた身だ。
旅行会話くらいなら特に問題なくできる。

彼らは顔を見合わせて、おずおずとスマホの乗換案内を見せてきた。駅名を見て、切符を買いたいのだろうと把握する。

「180円だよ」

私はひとの当たり前として教えてあげて、彼らは納得したように「OK」とだけ言って二人分の切符を買った。──以上。

何が言いたいかというと、「ありがとう」のひとこともなかったのだ。

別に、お礼を言われるために教えたわけでない。
日本の旅行をいい思い出にしてほしくて、そして間接的に、イタリアで私に良くしてくれたお姉さんへの恩返しとして親切にした。
しかしそれでも引っかかる。

英語話者ではなかったのかな?
それでも「サンキュー」なんて大学を出ていないうちのおばあちゃんでも言うぞ。

私何か気に触ることしたかな?
いやでも切符の購入を手伝っただけだぞ。

私は首を捻り、しかし頓着する問題でもないので普通に帰路に着いた。

時間は飛んで、一週間後。

「それだよそれ!」

アヤさんは年上の女性で、欧米圏在住の私の友人だ。
綺麗で華やかで、でも親しみやすくて、優しくて、ついでにめちゃくちゃガッツがある。

彼女は絶賛、在住国でのアジア人差別に悩まされ中だったのだ。
ピンと来ていなかった私も話を聞くにつれて理解し始め、遂には先日の観光客からの態度で腹落ちしたのだ。

「それ!最低だね!」
「納得した。これかーっ。ちょっと腹立つな」
「そういうときはね、『言われてないな』と思った時点で『ユアウェルカム』って言っちゃうと良いよ。マイルドな皮肉」
「へーっ。知恵」

ひとつ賢くなった私はなめらかな脳みそにその対応を刻み込み、

つい先日、リベンジマッチに臨んだのだ。

同じ駅で困っていたのは白人のカップルで、今度は券売機ではなく案内図を見ておろおろしていた。

「何処行きたいの?」

私はやはり英語で声を掛ける。

女性がおずおずと差し出してきた乗換案内には、有名な観光地の名前があった。
ここからだと歩いて10分ほどの駅から向かうのが近い。

「ついて来て」

私はちょっと意地悪な気持ちで、しかしにこやかに先導した。カップルは早口の英語で会話して、付いてくる。

「君は行ったことあるの?僕たち行ったことなくて、すごい楽しみなんだ」
「無い。日本にいるとかえって行かないもんだよ」

道中、カップル、特に男性は気さくに話しかけて来た。
私は拙い英語で答える。

幸いこの辺りの立地には詳しい。
すいすいと細い道を抜けて駅まで案内すれば、カップルは目を輝かせた。

「ありがとう!」
「本当にありがとう!」

ふたりは嬉しそうにお礼を言ってくれて、何と男性はカチッと敬礼までしてくれる。あまりにも様になっているので、警察官か軍人かもしれなかった。

私は意地悪な気持ちで始めたことのくせにとても嬉しくなって、「日本を好きでいてね」と手を振って別れたのだ。

つまり、「アジア人差別」とは言っても、勿論全員が全員「差別感情」を抱いてるわけではない。
当たり前のことだが、見落としがちなことでもある。

さて、話は随分と昔に遡る。

私は在日外国人だ。
高校生であった当時、私は「自分は外国人である」という意識が強かった。アイデンティティの据えどころがわからなかったのである。
ついでに言うなら私の祖父母が日本に来て以来我が一族は日本で暮らしているし、もっと遡るなら中国・南宋にルーツを持つ。アイデンティティがあやふやになりがちな環境で、取り敢えず祖父母の祖国に駒を置いた、今となればただそれだけの話。
しかし当時はそこまで言語化できておらず、ただ漠然と「私は外国人なんだ」と思っていた。後述する受けて来た差別や、一族の風習から。

「メグは自分のこと外国人だって言うじゃん」

私に切り出したのは、当時通っていた英会話教室のネイティブ講師であるジェイスだった。
名前はジェイソンだけど、ジェイスって呼んでね、と笑う顔のハンサムな先生で、彼は生徒の名前にそれぞれ愛称をつけて呼んでくれていた。私・めぐるのことはメグ、というように。

「うん。私は外国人だよ」
「何故そう思うの?」

彼はブルーの目でじっとこちらを見ている。
その日は私以外の生徒は全員休んでいて、私とジェイスの二人きりだった。

「血としては外国人だし」
「その国に住んでいたことはあるの?」
「無いよ。観光で三日間、首都に行ったことがあるだけ」
「言葉は話せる?」
「何も話せない。ママは若い頃留学したから話せるし、おじいちゃんたちはその国で生まれたからペラペラだけど」
「なら君は何故自分が外国人だと思うの?」

子供にするにしてはびっくりするくらい核心的な質問だ、と今になれば思う。彼は時折、そういうひたむきな真摯さを子供相手に投げかけるひとだった。
生まれてから今まで、私に対してそういう問いかけをしてくれたのはジェイスだけだった。

結局私は困って、答えられなかった。

ジェイスといって思い出す話はもうひとつある。こちらが本題でもある。

「キャットコール」、という言葉を聞いたことがあるだろうか。女性ならだいたいあるだろう。

「アミ、メグ、これから言うことは特に君たちにとって大事なことだから覚えていてね」

ジェイスは私とアミちゃん、マサくんとヨシくんに向けて真剣に話し始めた。

「日本ではそういうことはあまり無いかもしれないけど、特に海外だと、女性が街を歩いているときに、突然道端から大きい声で褒められることがあるんだ。キュート、とかセクシー、とか。でもそれって褒められてないんだよ。馬鹿にされてるんだ。誰に対しても絶対にやっちゃいけないことだ。マサもヨシも絶対やらないこと。アミもメグも、間違っても喜んじゃダメだよ」

ジェイスはゆっくりとわかりやすい発音で話してくれた。

「そういうときはどうすれば良いの?」

私が聞き返す。一見して褒め言葉であるその言葉にどう返せば良いのかわからなかったのだ。

「『Go a hike』って言うこと。あっち行けって意味。ハイキングにでも行けってことだよ」

ジェイスはちょっと笑って答えた。

「アミもメグも、女性であることで不当な扱いや差別を受けることがあるかもしれない。マサもヨシも、男性であることや、他のことで不当な扱いや差別を受けることがあるかもしれない。そういうときはちゃんと怒って良いんだ。自分のことを守って良いんだよ」

これは今から二十年近く前のことで、当時は「キャットコール」という概念もまだ日本に無かった頃のことだ。
ジェイスは本当に先進的なひとで、ついでに日本人のお嫁さんをもらって和装で結婚式を挙げた。袴を履いて、ピッと背筋を伸ばして正座をしたジェイスの写真を、今でも交流のあるマサから見せてもらったが、幸せそうで何よりだった。

差別には怒って良い。
その教えを噛み締めるのは、私が三十を過ぎてからになる。

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