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頑張ることの何が悪い

『日本エッセイスト・クラブ賞』をご存知だろうか。
日本でも歴史が古く、数々の著名人が受賞をしているエッセイ・ノンフィクションジャンルの文学新人賞だ。
私は今年三月にAmazonから刊行した拙著『デンドロビウム・ファレノプシス』で、この賞に応募していた。
私が前の夫と交際を始め、結婚して、離婚するまでのDVの記録がこの本だ。

今までにも文学賞の公募に出したことはある。
ただ、私の今回の応募作はあまりにも私の人格形成に深く関わる内容だったので、あまりにも真剣に受賞を願ってしまった。

職場近くの神社に御百度参りだってしたし、私の得意なタロット占術で日を変え質問を変え延々行方を占った。
情緒が長く安定せず、ある時は先に受賞コメントを考えてみたり、結論「待つしかできないよりは勉強の方がメンタルに良い」と簿記二級の勉強に打ち込んだ。

「私はきっと受賞できる」。
これはきっと私の予感というよりは願いで、「何も得られなかった33年間の人生を巻き返したい」というリベンジだった。
大なり小なり私という個人の人生を踏み躙ってきた人たちへの復讐であり、負けっぱなしでいられるかという私の希望だった。

「4回の審査を経て最終候補作が決定」、そう銘打った記事のタイトルだけが上がったのが土曜日だったと記憶している。
私はその日から期待のボルテージを上げながら生きて──昨晩、そのページに自分の名前が記されている夢を見て飛び起きて、チェックしたのだ。

候補作の中にすら、私の名前はなかった。

当たり前といえば当たり前だ。
私はまだ人生が始まってもいないくらい超無名だし、出版社が背後にあるわけでもない。担当編集がついてるわけでもないし、校正を誰かにやってもらったわけでもない。
どんなによく書けていたとして、そういう人たちに勝てるわけがない。
同じ土俵に上がれてすらいない。

深夜三時、私はもそもそ起きだしてコンビニにドカ食い用のスナックを買いに行き、帰ってきてポテトチップスの大袋を食べながら泣いた。

私の書いたものには価値があった。
世界に認められなくても、それでも価値があるのだ。
これを書き切らなければ生涯恨み続けていたであろう人が、前の夫のみならず、たくさんいる。
私はこれを書いたことでまたひとつ大人になれたのだ。
それを“価値”とせずに何を価値としようか。
少なくとも私の中で、私の本は33年間の結晶だった。
「こんなくだらないものを書いてしまった」と破り捨てることすらできなかった。
書く途中で日本語の読み書きすらまともにできなくなるくらい苦しんで、信頼する友人たちと作り上げた本は、何よりの宝物だった。

話は少し前に遡る。
受賞できるかどうかが心配で、ずっとSNSで病んだツイートをしていた時期、「君が苦しんでいるのは頑張ったからだ、頑張ることの何が悪い、胸を張れ」と匿名のメッセージボックスに投稿されたメッセージがあった。
私はそのメッセージがもし紙に書かれていたとして、擦り切れるくらいそれを読み返した。

頑張ることの何が悪い。
私はこれからも頑張るんだ。
落とすなら落とせば良い、何度でも落とせばいい、でも私を落としきれない日がいつか来る。
私はしつこさと粘り強さだけは自信があるんだ。

そう思いながら今もズビズビ泣いて、いつだって私の見方をしていてくれるピースライトを吸っている。

頑張ることの何が悪い。
私はこれからも頑張るんだ。

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