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サーシャの話

彼女が気づいたとき、彼女はもう夜の森にいて、裸足のままでさまよっていた。この森は夜が明けることがなく、彼女はたまに盛り上がった木の根に躓き、倒れ、また立ち上がり、転ばぬよう必死に目を凝らしながら歩いていた。どこへ?

彼女が気づいたとき、彼女は針葉樹の森の、粗末だが炎の光に満ちた小屋の前に立っていた。扉をノックすると、中から現れたのは老いた隠者だった。隠者は彼女の瞳と傷ついた裸足を見て、それから彼女が両手で握っているものを見て、すぐに小屋の中へ通してくれた。

隠者は彼女を暖炉の傍の椅子に座るよう促し、桶に沸かしたお湯を注ぎ、エメラルドを一粒入れてから、彼女に足を浸けるよう言った。彼女はそのとおりにした。それから、隠者は彼女の固く握りしめられた両手に、そっと触れた。

彼女の瞳から、涙がひとつ、零れ落ちた。それはなかなか止まらず、彼女の頬は涙で冷たくなった。子供のようにしゃくりあげながら、ふと自分の手を見たとき驚いた。隠者は手を離す。すると開かれた自分の手の中に、ちいさな小鳥が横たわっていたのだ。くちばしから血を流している――。

これは君の心だよ、と隠者は言った。


「わたしの住むこの森には、たまに君のようなひとがやってくるよ。傷ついた心を抱えて、必死に闇の中を歩いて、ここまでやってくる。そう意識しなくても、君自身が、あるいは君を守るものが、そのように促すのだ」
「私の心は、こんなに小さくて、こんなに弱弱しくて、こんなに――傷ついているのでしょうか?」
「そうであるとも言えるし、そうではないとも言える。君は君の抱えているものが、どんなふうに見えている?」
「小鳥のように――見えます。くちばしから血を流していて、もう死んでいるみたい」
「そうだったか。わたしにもそう見えるし、まったく別のものにも見えているよ」
「どんなふうに?」
「美しい蛇のようにも見えるし、星の散る黒い霧のようにも見える。小さな花冠のようにも、大きな金の指輪のようにも見える」


それは思いがけないことだった。隠者は嘘を吐かない。なら隠者には本当にそのように見えているのだろう。

「私の心は、いったいどうなってしまったのでしょう?」

混乱した彼女が再び両手を強く握りしめようとすると、隠者はさきほどのようにその手に触れた。隠者のあたたかな皺のある手は、手のひらが厚く、頼もしく、彼女を優しく支えてくれるようだった。


「時間とはね、一定の方向に流れているものではない。特にこの場所はそれがよくわかるようになっている。そしてヒトの心は時間と経験によっていくらでも変化するのだ。君の心はおそらく、いまは、傷ついた小鳥のようなのかもしれないね。でもそれは、過去でもそうだっただろうか?未来でも変わらないだろうか?すなわち、いまはどうだろうか?」


彼女はじっと彼女の心を見た。彼女の心は傷ついた小鳥にしか見えなかったが、しっかりとつぶらな瞳をあけて、こちらを見ていることに気が付いた。息をしている。小さな体があたたかい。小鳥は生きている。心は生きている。


「傷ついても、目を開き続けることができる。君は勇敢だ。君の心もまたそうだ。君がそうして君の心を見つめ、過ごしていくことで、何かが変わっていくだろう。元に戻っていく、ともいえるかもしれない。恐れるようなことではないよ」


隠者は白い髭に隠れた口をにっこりとさせて笑った。