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【短編小説】或る1日

 何も浮かばないまま徒らに時が過ぎていく。いくら時間という概念は元来あるものではなく、人間の便利のために生み出されたのだと言ってみたって、机上の時計は針を進めるし、締切は3日後である。私1人が拗ねたところで暖簾に腕押し、糠に釘。望むべくは人類皆が時間へボイコット。
 白紙、白紙である。偏に私の性分が悪い。まず紙に書く所から始めねばならぬ。いきなりキーボードへ手を置いてみた所で、口も目も半開きでスペースアウトするより能のない私が悪いのである。いかに白紙を埋めたとて、それを打ち込む必要がある。二度手間である。それに、1度書いたものを自ずと見返す形になる。すると、構成の粗が目につく。言葉の誤用が目に余る。そのくせ誤字や脱字は目をすり抜ける。
 最悪、手書きのものをそのまま編集に渡しても、編集が打ち込んでくれるだろうけれども、流石に私の良心が咎める。私が大作家先生ならば、編集側も、これが私の使命なりと大いに意気込むのだろうが、私は駄文書きである。面接にて「身を粉にして働く所存であります」と言ってしまった編集諸君といえど、私の駄文を相手にするなど、打ち込み損のくたびれ儲けである。
 そうこう考えている内に、マグカップがまた空になった。私は立ち上がり、湯を沸かしにキッチンへ向かう。飲んだコーヒーの分だけ私は時間を浪費している。コーヒーを集めて早し嗚呼時間。
 焦っても視野狭窄に陥るだけである。百戦錬磨の練達先生の手腕であれば、切羽詰まる時には、これまでの焼き増しの如き手癖のみの文章を書き上げてしまうのかもしれないけれども、生憎と私にそんな自動操縦機能は搭載されていない。完成するのが愚にもつかない駄文であるというだけで、そこへ至る道程には紆余曲折、暗中模索、五里霧中、無闇矢鱈、自暴自棄、とにかく一丁前の苦悩があるのだ。明治にはもう紡績機があったという。時代に取り残されし我が生産性。糸も言葉も紡ぐものである。
 湯が沸いたのでコーヒーを淹れる。といってもインスタントである。もう残り少ない。そういえば、私は何故コーヒーを飲むのだろう。今は別段眠くもないし、これまでの人生においてカフェインの効用を実感した試しはない。苦いなあ、と思いながら嚥下するのみだ。猫舌なので直ぐには飲めない。何1つ私に合っていない。なのにずっと飲んでいる。
 そんな腐れ縁の黒い液体をカップに満たし、机へ戻る。相変わらずの白紙が堂々と居座っている。思わず、溜息を漏らす。依然、進捗なし。
 気付くと、文庫本を手に取っている。表紙を見て我に返り、慌てて本棚へ戻す。私の本棚にはどうも暗いのが多い。しかし、それはこういう時に役立つ。手に取って、ああ、これなら止めておこうか、と逡巡する余地が生まれる。コーヒー、熱くて飲めず。
 取り敢えず、書く。それが、私にはできない。決めないと書けない。
 経験を基に書いてみようか、しかし、思い出見当たらず。仕方なく小学生まで遡る。修学旅行で京都、奈良へ行った筈である。金閣寺の景観はよく覚えていない。それよりも、隣にいた外国人の背の高さに驚いた。青いポロシャツを着ていた。清水寺も、法隆寺も、行ったことだけは覚えているけれども、それらの名を聞いて思い浮かぶ風景には、右下に「提供・アフロ」と書かれている。
 私は何故文章を書くのかしら。ふと、思う。曲がりなりにも編集から依頼されて書いているのだから、畢竟何を書いても、基本的には却下されないのではなかろうか。しかし、駄文では、次の依頼を貰えない。何のために書いているのか。金である。
 展覧会に便器を出品した芸術家がいたという。何でも芸術になり得る、成程、そうであるか。ならば、何をやってもいいのは芸術の方である。金のために書く方が、よほど厳しい。芸術の正体見たり虚仮威し。コーヒー、少し冷めたので1口啜る。
 腹が鳴り、時計を見る。とっくに昼である。折角早起きしたというのに、結局いつも起きる時間まで何も進んでいない。早起きは三文の得なるか、いいえ、早起きしても、いつもよりコーヒーが多く減るだけです。我、真理に気付いたり。
 腹は鳴る、されど食わず。コーヒーのせいである。コーヒーを飲むと食う気が失せる。口腔、鼻腔、肺、胃に至るまで、コーヒーの苦味と臭気が満腔を埋め尽くす。それを感じつつも、また1口啜る。やはりただの苦い汁なり。
 恋愛、恋愛を書いてみようかしら。専ら文学の具に供されている恋愛様であるから、さぞご立派なものなんでしょう。それを題材にすれば、私も名文美談の1つや2つ、いとも容易く書けるのかしら。いいえ、勘違いするなかれ。恋愛について書くのは、悩む姿が書ければいいので、手っ取り早く題材に選ぶだけのことなんです。人を動かしたいなら、恋愛と死、それさえあればいい。
 そういえば、死ぬのは怖いと思い出した。私は1度、道路にある縁石の上を綱渡りのように歩いていたら、車道側へ転げ落ちたことがある。幸い車は通らなかったが、通っていたら死んでいた。生きる意味やら価値やらを問う人があるけれども、私からすれば、死なずにいられるなら生きていた方が随分といいので、死から逃れているというだけで、十分生きていけるのだ。生とは、死からの逃避行である。
 そういえば恋愛を書こうとしていたのだった。脱線こそ思考の真髄、醍醐味である。しかし、目的を持った思考において、脱線程甘美な毒はない。いくらでも言い訳ができる。全ての思考は本意に通ず、と言えば言えなくもないのである。概して役に立った試しなし。人は悩むより多く言い訳している。これもまた脱線なり。
 何も知らない若輩者から見ても、身分違いの恋や許されざる恋、というものが昔より減ったということは想像に難くない。つまり、そういった題材で共感は得られにくいのかもしれない。「別にいいじゃん」の一言で終わりかねない。かくいう私も現代に身を窶す者であり、他人の色恋には全く興味がないため、「別にいいじゃん」と言うより外ない。美禰子や三四郎にこういう考えがあれば、自由恋愛できぬ枠組みの方を疑る心があれば、2人は結ばれたものを。
 目の前の白紙が私の愚劣を物語る。これはまずい、と意気込んで持ったペンも、数十秒の内に指先でくるくると回っている。言葉もペンも、弄ぶしかできぬ私である。
 私が打ち込むより書く方を好むのは、おそらく、キーボードは弄べないからだと気付く。ペンで書く方が、キーボードで打ち込むより御しやすい。言い換えるならば、ペンは私の頭とより直結している。キーボードに慣れれば、きっと未来の私が楽になる。しかし、私は目先の楽を取る。後悔先に立たずと知っての所業、私は私を手に負えない。寝ているだけの、そして寝ていられる環境が何よりも可愛い怠惰な私の声が最も大きい。これは私に限らず、大抵のものは同様であろう。またも真理を悟り得る。
 どうやら私は恋愛を書き得ない。私には恋愛へ抱く幻想がないのだ。そう考えると、そんな私にも些かの感動を与える世の恋愛小説は、素晴らしい。恋愛小説は、薄っぺらい、否、薄いのはそう言う読者の人間性である。幻想や空想へ想いを馳せられぬ個々人の感受性によるものである。しかし、それはさしたる問題ではない。幻想や空想を嫌うなら、のうのうと現実だけを見て生きていればいい。
 私はそういう人間の爪の垢を煎じて飲む必要がありそうだ。依然として白紙は白紙のままである。白紙を埋めようと始めた思考のせいで、時間を蕩尽している。本末転倒、ここに極まれり。もう夕方になっている。
 締切は明明後日、今すぐ書き上げねばならないわけでもあるまい。
 コーヒー、冷えて酸っぱくなっている。

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