【短編小説】なんかの華、柑橘の香り
私は芸術が嫌いである。
机上の林檎を、これは知恵の実で、しかもそれが腐っているということは我々の知性の低下を暗に皮肉っている、とか言う。それに対し、林檎が知恵の実だというのは俗説で、旧約聖書にそんな記述はない、と口を挟む。林檎が林檎であることそのものを超えられはしないというのに。
何かが何かの象徴であるとか隠喩であるとか暗示であるとか、そういったものは全て、空へ浮かぶ雲が何の形に見えるかを議論しているようにしか思えない。そう見れば楽しい、面白い、それがいつしかそう見るのが正しい、へと変容してしまったのだろうか。
作者の本意は作品にとっての本意と同義であろうか。
作者の本意が即ち正解とするのは傲慢と言えよう。犬、という言葉を聞いて各々が想像する犬の姿は異なる。飼い犬を思い浮かべながら犬、と言ってもその姿態がそのまま伝わることはない。つまり、己の外へ出た時点でそれは自分だけのものではなくなるのである。自分の内にあるイメージを留めたまま伝えたいのであればそれだけ言葉を費やさねばならぬ。例えば飼い犬の姿形を正確に伝えたいのなら、なるたけ詳細に描写する必要がある。「何々という犬種で、体長はこのくらい、毛の長さはこう、色は何色、目の形がこう、云々……」、と手間や時間を惜しんではいけない。
表現したいことが伝わらぬ、それは至極当然である。芸術のやっていることは、犬、という1言で以て、「私が犬、と言えばそれは正しく飼い犬のペロに他ならず、また私はペロをいたく愛しているから、愛情を注ぐもの、という意味だ」といったことを伝えようとしているようなものだ。正確に伝える、それを優先するのであれば、田園風景の絵画の側にスピーカーを置いて自然の音声を流し、クラシックを演奏する背後のスクリーンに「今はこういう心境を表しています」とテロップを映し、SF小説にて未知の生物を説明するために3Dモデルで作ったそいつのデータを添付するべきである。そこを省いて絵だけ、音だけ、文だけで表現している以上、上手く伝わらぬことなど百も千も承知した上でやらねばならぬ。
私が芸術を嫌うのは、にも関わらず、己の外へ出たものが他人へどう伝わるかを制御、調整する手間を省きながらも、作者の生い立ちやら時代背景やら細かな表現の裏の意図やらを加味した上で考え、読む、見る、ということが、提示された作品そのもの以上に大切であるとされているからである。
つまり、芸術とは下手な例え話とそう違わない。分かり易さ、という観点からすれば、詐欺師やインチキ教祖の描く絵や書く文章の方が上手になるのではないか。下手な例え話の中にメッセージを仕込みました、片腹痛い。
と、ここまで書いて筆が止まった。そして、ここまでの文章を読み返してみた。これは小説であろうか。無論、全ての言葉は畢竟私から生まれているのであるから、何を書いたって私の要素が混じっているのは当然である。私がここで懸念しているのは、「作中の私」がイコール作者である私だと取られやしないか、即ちこれは小説の形を借りた自論語りだと思われやしないか、ということだ。そうではないのだ。私は常日頃芸術へ斜に構えているわけではない。ただそういう人間を脳内に作ってみただけなのだ。芸術を白眼視する見地から試しに物を言ってみたまでである。
それと、ここまで少々読者へ優しくない文章になっていると気付いた。「作者としての私」と「作中の私」が双方ともに「私」という一人称を使っている。これはいけない。ここは1つ、作中の私に固有の名前を与えて三人称視点にしてみよう。名前はそう、彼は芸術を嫌っているわけであるから、「美を厭う」をもじって尾東維雄とでもしておこうか。
ついでに白状するが、私はこの維雄について何も考えていない。ただ、オチだけは決めてあるため、どうにかそこへ辿り着くのを願うばかりだ。
維雄がこのように芸術への恨み言を捏ねくっていたのは、彼もまた芸術へ携わる者の端くれであり、進捗の芳しくないことを憂えた結果であった。維雄は小説を書いている。大学在学中に応募した賞で、入賞はしなかったものの運良く編集の目に留まった。そこまでは良かったが、特にヒットすることもなく気付けば三十路になっていた。デビュー以来世話になっている編集は、何を思って自分を拾い、どういうつもりでまだ仕事を寄越してくるのだろう。若い頃はまだ、若いことが価値になった。この若さにしては、と前置きすれば多少評価も上がった。お陰で数冊本も出せた。しかし30になってそろそろ、業界の中では若いのかもしれないが、その前置きの効果も薄れてきた。もしや編集は、私という中途半端を拾ってしまったその責任を取るために、あるいは義務感のために私に構っているのではないか。最早私の書くものへ期待などしていないのではないか。元々案を出すために始めた思考は逸れ、卑屈へと陥っていく。上手く書けぬ時の癖であった。
気分転換に散歩にでも行こうかしら。ふと維雄は思った。しかし、1度気持ちが離れると戻ってくるまでに時間を要するという自らの性向を自覚していた維雄は、即座に却下した。却下した後で、歩いても疲れるだけで何も得られまい、それに散歩のルートは大体同じで、今日に限って何かが変わっていることもないだろう、と理由を付け足した。違う場所へ行こうと思ったらガヤガヤした街の方に行く必要がある。維雄は元来人嫌いであった。会話をするのは勿論、言葉を交わさなくとも、自分でない誰かが傍にいて自分を視界に認めている、そう思うだけで気が気でなく、縮こまった挙動になってしまう。
ならば電車に乗って知らぬ町で散歩してみようか、とも考えたが、それも止めた。維雄は最寄りの駅に置かれたピアノが嫌いであった。あれを見ると、否が応でも芸術を想起させられる。誰かが手遊びに弾いていたりすると尚更である。音がうるさいとか、得意気な演奏者が癪だとかそういう類の嫌悪ではない。いかにも芸術、いかにも文化的、そういう雰囲気が嫌いなのである。おそらくそれを生業にしていないであろう者が、下手の横好きや素人の手慰みにピアノへ触れる、それを見ると、曲がりなりにも芸術や文化の片隅で飯を食っている自らの惨めさを突きつけられている気がするのだ。ピアノは芸術のために生み出されたものだ。その純粋さにおいて自分とは生まれながらの差がある。そんな芸術のための道具があるというのに、芸術のために生まれていない自分が、これまた芸術専用ではない言葉を使って芸術モドキをやっている。ピアノを見ていると、自分に纏わる全てが馬鹿馬鹿しく思えてくるのである。
早速、暗雲が立ち込めてきた。維雄を外へ出さねば何事も始まらぬというのに、散歩へ行くのを止めてしまった。そして維雄は存外卑屈な男であった。卑屈な人間というのは動かしづらい。何か事を起こさせようとしても、卑屈な方へ発達せしめた思考回路がそれを邪魔する。止まる方へ止まる方へと進む思考をしてしまう。しかし、であれば答えは見えている。外的要因を与えてみよう。友人に電話を掛けさせる。維雄と付き合いが長く、彼の気質をよく心得ている。そんないい奴であるから、「いいやつだ」のアナグラムで谷津井大である。
あと、再び世間体を気にして言うが、本来私はこうも軽々しく芸術を連呼したくない。それだけは分かってほしい。
原稿が進まないまま難しい顔で固まっていると、スマホへ着信があった。画面には谷津井大、と表示されている。
谷津井は維雄の大学時代からの友人である。彼は大学卒業後自分で会社を立ち上げた。大成功、というわけではないが、倒産して借金塗れ、というわけでもない。上手くやっている方だろう。
「よう、先生」
谷津井は維雄をよくこう呼んだ。言うまでもなく揶揄である。
「どうした、今仕事中じゃないのか」
「いいんだよ、好きに日程弄くれるのが社長のいいとこなんだから。お前は何やってんだ?」
「いつも通り書いてたよ。何の用だ」
「最近会ってないだろ。昼飯食わねえ?」
維雄は二つ返事に承諾した。書かねばならぬと思いながらも、その実休む契機を探していたのである。
通話を切って維雄は気付いた。谷津井と会うためには電車を使う必要がある。結局ピアノを見る羽目になった。維雄は重い溜息を吐いて立ち上がった。
「最後に会ったのいつだっけ」
谷津井が維雄の向かいへ座りながら言った。
「半年くらい前じゃなかったか」
「そんなもんか」
それを皮切りに2人は互いの現状を報告し合った。谷津井は事業が軌道に乗ってきた、と上機嫌であった。近々結婚も考えている、そう言いながら笑う友人に、維雄は祝福や卑下や羨望の入り混じった複雑な心境になった。相変わらずだよ、が謙遜にも誤魔化しにもならぬ自らの人生に辟易した。
「今日誘ったのは本当にただ話したかっただけなのか?」
維雄は半ば強引に話題を変えた。
「ん?ああ……」
谷津井は黙った。維雄は面食らった。特別な用があって会ったことは維雄の記憶する限り1度もなかったのだ。
「お前さ、この先もずっと作家やってくのか?」
維雄は再び驚いた。谷津井は、維雄の仕事に対して頑張れよ、や大変だな、といった表面的な反応をすることはあっても、こういうことを尋ねるのは初めてであった。
「お前ずっと言ってたろ。いつまでこんな仕事で食ってけるのかなって。それが本心なのか仕事を愛している故の悪態なのかは知らねえけどさ」
何を言われるかは薄々察せた。維雄は内心困惑し始めた。
「ウチの社員、今月末で1人辞めんだよ」
だからウチで働かねえか、と谷津井は言った。真剣な表情をしていた。
「……」
全く予想通りの言葉であったが、返す言葉は浮かんでこなかった。真っ直ぐな友人の視線に耐えかね、維雄は目を逸らした。
「急に言われても困るよな」
谷津井は笑った。
「今月末までに何か返事くれよ。あと2週間くらいあるし」
2人はその店で別れた。谷津井は気前良く維雄に奢った。
維雄の足は自ずと遠回りをしていた。自らの去就について考えるため、また、突然現れた人生の岐路へ戸惑う心を落ち着けるためであった。話によると谷津井の会社は今のところ安定しているようだ。その安定した職を選ぶか、それとも自分の、自分の……そこで思考は止まった。文章を書くこと、それは自分にとって何なのだろう。食い扶持、無論そうではある。だが、それ以上の動機から文章を書いたことなどあったであろうか。大学在学中に運良く編集に拾われ、それをいいことに就職活動をサボって、ずるずると今まで来ているだけではないのか。世間に認められたいだとか、自分にしか表現し得ぬ何かを紙上に顕したいだとか、そんな大層な信念を持って書いたことが1度でもあったであろうか。否、やはり文章を書くことは食い扶持以上の意味を持たないのだ。それに、そう考えれば、芸術への嫌悪にも説明がつく。ピアノへの不快も理解できる。それらは僻みなどではなく、自分は本来この畑にいるべきでない、という違和感だったのだ。ならば、より良い食い扶持に鞍替えするのは寧ろ自然であり賢明であるとさえ言える。
思考にかまけて赴くままに歩いた維雄は、海浜公園へ着いた。沿岸には、胸の高さ程の白い柵が巡っていた。維雄はその柵を指でなぞりながら、海を眺めつつ歩いた。茜色の陽光が海面を揺蕩いながら様々に形を変えるのを見て、維雄は夕暮れに気付いた。そしてそのまま柵を乗り越えたい衝動に駆られた。
唐突な自殺願望に読者諸君はさぞ驚いたことだろう。私も驚いた。ここへ何かもっともらしい理由をくっつけるのが書き手の務めであることは重々承知しているけれども、私は敢えて、ここへ言及しない。というのも、冒頭の話が何も作用していないことに気付いたからである。維雄は死にたいと思った。その感情は彼だけのものである。感情の軌跡もまた、彼の内にだけ存在するのである。それに、彼の死にたい理由は話に全く関係がない。大事なのは、彼が急遽死にたくなった、そこのみなのだから。
私は無理矢理にでも、当初予定していた結末まで運ぶつもりである。よければお付き合い下さいませ。
維雄はとうとう柵へ身を乗り出した。しかし、それ以上前へ体重を傾けはしなかった。自分の消えてなくなることが、ひたすらに怖くなったのである。花の咲かぬ、どころか芽も出ぬ作家としての不甲斐なさ、見かねた友人に情けをかけられる惨めさ、自責、自憐、その他諸々の感情を合算して尚、死への恐怖を超えられぬというのか。生きることから逃げるために死ぬ、そう言うけれども、自分は逃げられもしないのである。維雄の心に生じたそういった諦念は、彼の体を柵から下ろした。
電車に揺られながら維雄は自分の書いた文章を回顧していた。なんて滑稽なんだろう。自分の居場所はここでないと気付かぬまま書き上げた駄文たち。苦心して練った稚拙な構成。時間を費やし選った語彙。必死に情景を思い浮かべながら生んだ比喩。全て無駄である。そんなところに、芸術はない。端から自分の中に芸術を生み出す気概がなかったのだから。自分は痩せた大地に水を遣り、スクリーンに映った誰かの姿を鏡に映った自分だと思い生きてきた。なんと愚か、なんと蒙昧、しかし、維雄はそこへ微かな愛情を感じ始めていた。自らへ愛着の湧くのをはっきりと意識していた。これまでの自分が、離れていこうとする自分の後ろ髪をむんずと掴んで引いている。安定を取りたい自分とこれまでを捨て切れない自分とのせめぎ合いは維雄を全く迷わせ、行き場のない鬱憤が彼の内へ募っていた。
駅に着き、改札を抜けると、ピアノが目に入った。そこへ遣る瀬ない鬱憤が維雄にある想念を齎した。
このピアノを燃やしてしまったらどれ程痛快であろう。このピアノを荼毘に付してしまえば、さぞ気も晴れることだろう。
しかし、維雄はタバコを喫まない。ライターもマッチも持っていなかった。暫く立ち止まり、やがて維雄は着ていたジャケットを脱いだ。
このジャケットが火の粉だったなら。
維雄はジャケットを被せるようにピアノへ投げた。風に翻りながら、ジャケットはクラゲのようにふわりと鍵盤へ着地した。維雄はそれを見ていなかった。ジャケットを投げると同時に歩き出していたのである。
あの忌々しいピアノも、じきに灰となる。演奏するために調律された音を鳴らせぬままに、炎に蝕まれ、輪郭をなくし、名残惜しそうに煙を立ち上らせながら失くなっていくのである。芸術の残骸を中心に轟々とそびえる火柱は、呵々大笑の愉快であった。維雄は込み上げる笑いを咳払いで腹に留めた。
そうして書きかけの原稿を埋めるために、維雄は揚々と街を下って行った。
以降は書く必要がない。
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