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読書感想文マガジン

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記事一覧

【BOOK】『ルビンの壺が割れた』宿野かほる:著 狂気は冒頭から滲み出ていた

「ルビンの壺」とは、1915年ごろデンマークの心理学者エドガー・ルビンが考案した多義図形のことを指す。 白と黒のモノクロで構成された図案で、ちょうど影絵のように、向かい合う2人の顔のようにも見えるし、大きな壺のようにも見える。 人間の情報処理の研究分野である認知心理学では、あるひとまとまりの模様を「図」として認識し、それ以外の背景を「地」と呼ぶ。 人間の知覚は、あるものを見た時にひとまとまりのものであれば「図」として認識するが、同時のその背景は「地」としてしか認識できない。

【BOOK】『舟を編む』三浦しをん:著 言葉によって救われる旅

人類が言葉(言語)を使い始めたのは、約10万年から8万年前くらいだとされている。 それぞれの地域でそれぞれのコミュニティを形成するにあたっては、言葉がなければ実現しえなかっただろう。 その言葉を、言葉の意味を、語釈を、簡潔に明快にまとめることは、この世界を生き抜いていくために必要な道具を作ることと同義である。 本作は、辞書編纂という仕事を通して、自身の人生や価値観を揺さぶられながらも、読者をも含めた「不器用に一生懸命に生きていく者たち」への讃歌である。 誰かに何かを伝えるた

【BOOK】『世界から猫が消えたなら』川村元気:著 人生を形作るもの

余命わずかであることがわかった主人公・僕は、突然現れた自称・悪魔に取引を持ちかけられる。 「この世界からひとつ何かを消す。その代わりにあなたは一日だけ命を得ることができる」 自分の命と引き換えに、世界から何かひとつが消えていく。 愛すべきものたちが次々となくなっていくことで、紐づいていた関係や思い出も、まるで今までも存在しなかったかのように世界は変わることはない。 果たしてそれは本当に「いらないもの」だったのか。 いや、世界には「必要なもの」など本当はなかったのだろうか。 喪

【BOOK】『孤狼の血』柚木裕子:著 暴力と欲望、その果てにある信頼と正義

昭和の終わりの広島の、仁義なきヤクザ社会の抗争とそれを「必要悪」として生かさず殺さず手玉に取る悪徳刑事・大上。目的のためなら手段をいとわない強引な違法捜査に呆れながらも、次第に大上の刑事としての「孤高の矜持」に惹かれていく新米刑事・日岡。警察とは、男とは、命とは何か。何もかもが薄汚れていて、何もかもがまぶしく見えたあの時代。男と男の魂のぶつかり合いに心揺さぶられる前代未聞の警察小説。 広島が舞台かと思いきや、主な舞台は呉市である。作中では「呉原」という地名になっている。 時

【BOOK】『我らが少女A』髙村薫:著 それぞれの幸せを胸に

女優志望だった風俗嬢・上田朱美が殺された。 生前、殺した男に何の気なしに語られた言葉は、12年前の未解決事件への関与を仄めかしていたことから、再捜査が動き出す。 今はもう最前線にはいない合田雄一郎刑事は、警察大学校で教鞭を取りながら、過去の過ちを反芻する。 大人の人生の薄昏さと、若者が抱くやり場のない怒り。 母と娘との間の「呪い」あるいは「毒親」的な振る舞いは、現実と記憶の狭間で微妙に薄汚れていく。 圧倒的な解像度で綴られる2005年と2017年の空気、そして今は亡き「少女A

【BOOK】『なれのはて』加藤シゲアキ:著 いつか何かの熱になれるなら

いつ、誰が描いたのか不明な一枚の絵の謎を追う内に、時代に翻弄されたある一族の壮絶な歴史を紐解くことになるエンタテイメントサスペンス。 現役アイドルが書いた小説、という枕詞がこれまでも必ずといっていいほどついて回ってきただろう。 だが、今後はその枕詞は必要ないし、自然と外れていくと思う。それだけの筆力を感じたし、色眼鏡で見て読むのをやめるのは勿体無い。 私はラストで涙を抑えることができなかった。 生きるとは何か、幸福とは何か、正義とは何なのか。 本書に描かれているのは、現代に生

【BOOK】『紙の月』角田光代:著 空虚な自分を埋める何か

生真面目で何不自由なく暮らしていた専業主婦は、なぜ巨額の横領事件を起こしてしまったのか。 梅澤梨花が求めていたのは恋か、愛か、温もりか、安心か、それとも確固たる自分自身だろうか。 そしてそれはお金で買えるものだったのだろうか。 疾走する焦燥感が胸にせまる長編サスペンス。 お金さえあれば、という幻想お金があればあれができるこれができる、と夢想するのは誰しも経験があるだろう。 宝くじはそういう人たちによって買い支えられ続けている。 夢想すること自体は何ら悪いことではない。 そう

【BOOK】『推し、燃ゆ』宇佐見りん:著 生きづらさを受け入れるために

なんという瑞々しい文体だろうか。 冒頭からその若さが溢れ出ている。 “推し”のアイドルがファンを殴ったという情報がSNSで拡散し炎上する、という風景から物語は始まる。 推しに全ての時間、アルバイト代、興味関心を捧げた先に彼女は何を見たのか。 希望と絶望との狭間で揺れ動く幼年期の終わりは来るのか。 第164回芥川龍之介賞受賞作。 宇佐美ではなく宇佐見、『推し燃ゆ』ではなく『推し、燃ゆ』である。 本作が2作目で、史上3番目の若さでの芥川賞受賞ということで話題になった。 デビュー

【BOOK】『暗幕のゲルニカ』原田マハ:著 芸術は理不尽に抗う武器

人類はなぜ戦争をするのか。 もっとミニマムに言えば、人はなぜ争うのか、とも言える。 それは、神が人間を造ったのであれば、致命的なバグがあるからだ。 戦争の愚かさを絵筆一本で描き、その存在自体が強烈なメッセージを放つ作品。 それが『ゲルニカ』。 1937年4月26日スペインのゲルニカ空爆前後と2001年9月11日アメリカ・ニューヨークのワールドトレードセンター空爆の前後という二つの時代を行きつ戻りつしながら、時代を超えてピカソによって人生を狂わされた2人の女性の視点で紡がれる物

【BOOK】『天地明察』冲方丁:著 天と地と人間の営みを映し出す大河浪漫

星が人を惑わすのではなく、人が天の理を誤っているのだ。 天の定石を正しく知ることが「天地明察」である。 碁打ち衆四家の安井家嫡男である春海は武士ではないのに帯刀を命じられながらも、日々算術に心惹かれる。 ある時、神社の絵馬に描かれた算術の難問を一瞥して即解答する存在に心奪われる。 本人の意思に関わらず徐々に時代を覆す大きな仕事に抜擢され、ついには日本の全てを司る暦を打ち立てる。 時代に選ばれ、時代を作った男の、友情と信念の大河浪漫である。 主人公・渋川春海(安井算哲)。 江

【BOOK】『法廷遊戯』五十嵐律人:著 正しさのかけ違い

3人の主人公の「正しさのかけ違い」を描いた作品として読んだ。 法の世界を舞台としたゲーム(遊戯)感覚のリーガルミステリ作品、といえば収まりがよいが、言葉の響きほど軽くはない。 多層的な人間の感情が重なり合いながら、心の壁が形作られ、最後には崩壊する。 そんな哀しく刹那い物語だ。 3人は法都大ロースクールで出会い、法律家を目指していた。 それぞれの道に進むなか、3人の壮絶な過去が交錯する。 誰にも言えない秘密を抱えながら、誰もが誰かを想っていた。 その想いをそれぞれが「正しい

【BOOK】『正義の申し子』染井為人:著 本当の正義は「献身」

小さい頃から正義のヒーローになりたかった。 という話は「シン仮面ライダー」の回で書いた。 本作『正義の申し子』のヒーローは、そんなかっこいいヒーローなんかではなく、かなりの「どうしようもないクズ」なのである。 登場人物、全員がクズ出てくる登場人物のほとんどが「クズ」である。 本作は主要な登場人物たちが、それぞれの視点からの語り口で紡がれている。 派手なパフォーマンスで再生回数に取り憑かれている告発系ユーチューバーである「佐藤純」こと「ジョン」、関西弁のろくでなし架空請求業者

【BOOK】『向日葵の咲かない夏』道尾秀介:著 自分というバイアスを引きずって

知っていたのは、道尾秀介の代表作で、話題になってかなり売れたということだけだった。 それ以外はほとんど予備知識なく読み始めてしまった。 後から分かったことだが、どうやら賛否両論ある作品らしい。 確かに、これは読むものを選ぶし、他人に勧めやすい作品ではない。 なぜ賛否両論が巻き起こるのか。 それは小説としてのあり方が、他にはない異質なあり方をしていたからではないだろうか。 例えばSFやファンタジー、歴史小説など、現代劇ではない作品は、事前にそうとわかっていることで違和感なく作

【BOOK】『55歳からのハローライフ』村上龍:著 リ・スタートするための「信頼関係」

あらゆる小説には、それを読むのにふさわしいタイミングがある、というのは積読中毒者である私の言い訳に過ぎないのだが、本作は確かに、読むべきタイミングがあり、その良きタイミングで読むことができたという意味では幸福であった。 「人間五十年」とは言うものの、現代を生きる我々は「人生百年」とか「リスキリンング」だとか言われて、まだまだもがいていかなくてはならない。 仕事、パートナー、こども、近隣との付き合いなどさまざまな関わりにおいて、どうにもならないことばかりが押し寄せる。 ここらあ