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カトリックのこころ-今、最も必要なもの、それは犠牲の心とゆるしの心

2021年5月にNHKの「こころの時代」という番組で「長崎の祈り―水がめを運ぶ人々に導かれて―」が放送された(初回放送は2019年9月8日)。この数年間、折にふれてその断片を思い出していたが、どうしても全体をもう一度聞きたくなった。幸い検索の結果、全体を改めて聞くことができたので、今回、これを残すことにした。今の時代にもっとも欠けている「自己犠牲」と「人を赦す心」の大切さを訴えている。これはキリスト教の真髄、奥義でもある。

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長崎の五島列島出身でキリシタンの子孫である、長崎大司教区の助任司祭であった古巣馨氏がある少女の死について語る。

彼は「あなた方はこれからどうするのですか?」と問い続けています。

この神父が長崎浦上教会で最初に出会ったのは一人の少女であった。
駆け出しだったので、彼は小学校一年生の教会学校を受け持った。学生たちは学校が終わると、その足で教会に来る。

ある日、悲しい出来事が起きた。それは子供たちの中でお金がなくなった者がいた。
早速犯人探しが始まった。めぼしがつけられたのは"ひとみ"という小さな女の子であった。保育所にも幼稚園にも行かせてもらえず、小学校に入ったので、読み書きも満足にできない無口な子であった。

母は病気がちで、父は無類の酒好きで仕事も休みがちであった。だから世話が行き届かず、パンツも履かずに学校に来たり、冬には下着なしでセータを重ね着していた。
寒そうによく青っぱなを垂らしていた。そのため、時々髪を切ってあげたり、買い置きのパンツを履かせたりした。顔は汚れて汚いが目は澄んでいてニッコリ笑い、ちこんと頭を下げるのが印象的だった。

「ひとみ、本当にお金を取ったの?」と聞いたら、しっかりと神父の目を見て首を横に振った。その時、この子は取ってはいない、と思った。

やがてお金をなくした子供が家に帰ったら、実は家に置き忘れていたことが分かった。ひとみは自分を犯人扱いした子供に何も言わなかった。その子がごめんなさいと言ったら、ひとみは何も言わずにうなずくだけであった。

夏休みが終わって2学期が始まって間もない頃、朝の5時に電話が鳴った。ひとみのおばあさんからであった。「こんな早い時間にどうしました?」と聞いたら、「ひとみの動かんとよなって、3日前から具合が悪かって横になっとった。今朝になって動かんとよな」と言うので、神父は慌ててバイクで坂道を登って家まで行った。

ひとみは、シーツも掛けないせんべい布団にズボンをはいたままエビのように丸くなって横たわっていた。"ひとみ、ひとみ"と身体を揺すってみたが息を吹き返すことはなかった。

慌てて医者を呼んだ。医者が来る前に、"どうしてここまでなってしまったのか、なぜ医者に連れて行かなかったのか?"と問うたが、母はその時たまたまいなかった。父は怖かったのか、神父が行った時には押入れの中に隠れていた。

引きずり出して「あんたはほったらかした!ほら、ひとみは動かんたい。はよ、起こさんね。」そう言ってやり場のない悲しみと怒りを父親に投げつけた。多分、殴ったと思う。でもひとみは目を覚ますことはなかった。急性肺炎だった。周りには家族がいても独り寂しく、無縁者のように人生を終えていった。

しかしひとみの死に顔は、スミレの花が咲いたように綺麗だった。神父がひとみを棺に納める時に「ひとみ、きつかったね」と顔をなぜていたら、はっきりと聞こえてきた。"神父さま、ごめんね。お願いだから赦(ゆる)してやってね"

親を恨み、自分の生まれを憎んだら、辛くて生きていけません。毎日、そっと祈りながら赦しを請う子供だったのでしょう。

ひとみという、かなり苛酷な境遇の中で生きてきた子供は実は、「水瓶を運んでいた」と思っています。

「水瓶を運ぶ」とはどのような行為なのでしょうか?マルコ福音書14/12-16には「都に行きなさい。すると水瓶を運んでいる男に出会う。そのひとに付いて行きなさい。その人が入っていく家の主人にはこう言いなさい。先生が、『弟子たちと一緒に過ぎ越しの食事をする私の部屋はどこか』と言っています。すると席が整って用意できた二階の広間を見せてくれるから、・・・」と書かれている。

要するに、「水瓶を運ぶ人に付いて行け、貴方が望むことをきちんと用意してくださる」と言うのです。水瓶には水が入っていますが、クリスチャンにとっては命の水を意味し、祈る人というのは命の水を運んでいるような人だと思っているのです。

「赦し」という神の思いを、この小さな子供がけなげに生きて死んでいく姿に目の当たりにしました。神父には"赦してね"というひとみから差し出されたことばが命の水なのです。

人間関係が切れていくとき、そこに赦しがないからです。赦しがあれば元に戻ることができる。絆を結びなおすことができるのです。イエスは「父よ、この人たちを赦してください。何をしているのか分かっていないのです。」と言った。そして赦された人は救われたのです。

赦されないから救われないのです。赦しがないところには、憎しみが生まれます。憎しみは復讐となって連鎖していくのです。救いの一番の泉は、そこに赦しがあることなのです。ひとみは神が赦しを教えるために選んだ人だった。それが水瓶を運んでいった小さな預言者です。
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神父は、亡くなっているはずのひとみが、「神父さま、ごめんね。お願いだから両親を赦(ゆる)してやってね」と言っているのを聞いた。ひとみの霊はそう言い残して神の元に戻ったのであろう。彼女は神の御使い(みつかい)、天使であったのだ。だから彼女は来たところ、神の元に戻っていったのだ。これで私は納得した。

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