見出し画像

30年前の記憶


最近やたらと「懐かしい」という感覚に陥るのは、やはり年を重ねたせいなのだろう。


若い頃は「懐かしい」という言葉を知ってはいても、実感として感じることはなく、過去よりも未来にばかり思いは向かった。それはいいことばかりというわけではなく、未知に対する怖さというものが多分にあったけれど、とにかく見るもの聞くもの何もかも新鮮で、新しい世界ばかりが周りにあったように思う。


初めて「懐かしい」という感情が実感としてこみ上げたのは、一人暮らしを始めてしばらく経った頃、確か役所に書類でも取りに行ったものだったか、久しぶりに生まれ育った町に帰った時のことだ。(同じ区内なんだけどね)
見慣れているはずの商店街は、変わったところも変わらないところもあったが、離れている間にまるで別の町になってしまったような、不思議な感覚だった。それでもかつて日常を過ごしていた風景が懐かしくて懐かしくて、私は涙が流れそうになるのをこらえた。


先日も、ふと学生の頃4年間アルバイトしていた小さなスーパーが懐かしくなり、最寄り駅で降りることにした。


       ✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳


その小さなスーパー「T」は実家から自転車で15分くらいの所にあった。


何か楽しいことがあったわけでもなかったが、4年間働いたこのスーパーはまぎれもなく当時の私の日常で、60代の陽気な社長と美人の奥さんが切り盛りするアットホームな店だった。
ちょっととぼけた感じの店長は、娘さんが高校野球の強豪校に通っていたらしく、
「甲子園に出るからカンパさせられるんだよな~」
とぼやいていた。

店から少し離れたところに社長の所有するアパートがあり、1階は倉庫として使われ、2階の一室が従業員の休憩所だった。昼休みになると、レジ担当に青果、総菜の従業員も加わって、みんなでテレビを見ながらご飯を食べるのが常で、私はそんな昼休みが結構好きだった。


このTによく帽子をかぶったじいさんが来ていた。
陽気で話し好きのじいさんは女性従業員に、
「美人だねえ~」
などと誰構わず話しかけ、必ず女性のレジ係がいるレジに並ぶ。そしておつりを渡そうとするとその手を握ってニヤニヤするのだ。

ある日、やってきてレジに並んだじいさんは、いつものように、
「きれいだねえ~ほんとに美人だ!」
とそのレジのパートさん(佳那晃子似の美人)に言って、手を握った。私は向かい側でレジを打ちながら、ああ、じいさんまたやっとるな、とうんざりしながら聞いていた。
すると次の瞬間、苦笑いでもするかと思われた佳那晃子が、

「やめてください!ここはスーパーですよ!!」

とぴしゃりと言ってのけたではないか。

面食らったじいさんは、顔を真っ赤にして怒り出し、
「失礼だ!」
と叫んで行ってしまった。
ハラハラしながら見守っていた全従業員が心の中で拍手喝さい。
普段は物腰の柔らかい人なのだが、佳那晃子、かっこよかった。

じいさんがどんなご身分の方かは知らない。
おそらく今までじいさんの周りには、手を握られても愛想笑いをする人しかいなかったのだろう。


      ✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳


駅から10分、歩きながらそんなことを思い出すうちに、スーパー「T」のあった場所にたどり着いた。


あの小さなスーパーは今はもう無かった。


いつ閉店していたのだろう。
建物は同じもののようだが、そこは「まいばすけっと」になっていた。
裏口に回ってみたが、建物が改装されたのか、昔の面影はない。
青果や総菜があった2階は、マンションの部屋になっており、事務所があった地下へ続く階段も扉でふさがれていた。

みんなでご飯を食べたアパートは、新しい建物になっていて跡形もない。


あれから30年がたったのだ。
閉店していても不思議はない。


ただひとつ、隣の喫茶店「W」だけは当時の姿そのままに残っていた。
「W」のママは当時40代くらいのさっぱりした人で、よくツケで買いに来ていた。一度だけ、パートさんたちと3人でランチを食べに行ったことがあったが、「W」というヨーロッパの都市の名前にもかかわらず、出てきたのは韓国料理のビビンバだったのを覚えている。


「W」には今もあのママがいるのだろうか。


入り口がある二階への階段を上りかけて、足を止めた。
「W」の扉を開ける勇気は、私には無かった。









この記事が参加している募集

#昼休みの過ごしかた

1,705件