「成長」を説明できますか?
こんにちは!今日はキャリアにおいて「成長」とはなんぞやっていうことを説明していきたいと思います。
新年に差し掛かって、「成長したい」っていう願いや目標を掲げている人も多いでしょう。ところで、「成長」ってなんでしょう?どういう姿になることが「成長」と言えるのでしょうか。その「成長」は実は「退化」になっていることもしばしあり得るのです。
成長と退化は表裏一体です。私もあまり容易く「成長」という言葉を口にすることは好きではありません。しかしながら容易く人が「成長」って言うところに噛み付いていると、流石に空気が読めなさ過ぎて人が離れていく気がしたので、このnoteを使って以下の2つの観点から「成長」という言葉を深掘りしたいと思います。
・成長は長期的なストックでなければならない
・成長は評価者が判断する
辞書的な意味の「成長」
デジタル大辞泉によると以下に記載がありました。
生物を対象にするときでも、経済的事象を指すにしても「大きくなる」ということが「成長」においては欠かせないものになりそうですね。
次にブリタニカを見てみましょう
合わせて、世界大百科事典 第2版「成長」の解説も見てみます。
ブリタニカと世界大百科事典 第2版においては細胞分裂を伴う、生物的な観点で書かれていますね。合わせて、細胞分裂を伴わない一時的な質量・体積の増加は「成長」という定義からは外れるみたいです。
ここからは個人的な解釈/意見になるのですが、社会生活において一時的に身につけたその知識やスキルは、他の世界に飛び出して使い物にならなければそれは成長ではなくなります。ブリタニカにある「一時的な水分の添加などによる変化」にしか過ぎないでしょう。
また、成長しているしていないの判断をする上では、自己以外の評価する人を常に意識する必要があります。生物学的には細胞分裂を伴って大きくなることが「成長」であるならば、単純に知識が身についただけでは生物学的には「成長」とはいいません。逆も然りで、デスクワークで仕事をしている人が170cm の身長から200cmに伸びても、威圧感は強くなるかもしれませんが、その事象を取り上げて社会的に「成長」したと評価することは難しいでしょう。バレーボール選手であれば評価されるかもしれませんが…。
会社にとって都合のいい人間になるのは成長ではない
終身雇用の時代が見事にぶっ壊されて、自分のキャリアは自分で作る時代が到来している昨今では、会社にとって都合のいい人間になれば「成長」と評価される時代が終わりました。常に上司の操り人形となって、ごますりをして、チャレンジよりもミスをしないことを優先して当たり障りなく仕事をこなしながらポストが空くのを待って、昇進・昇格を狙っていく…。昇進・昇格することを「成長」として置いてしまったら、「成長」が会社にとって都合のいい人間になることと同義になってしまいます。
「成長」するためには評価者を常に意識しなければならない
これからの時代は自分が定める評価者を意識した上で、その人にとって価値があると認めてもらうことが「成長」と言われる時代になります。
犬のトリマーを例にします。どれだけ犬のトリミングが上手い人がいても、動物を飼っていない人からすれば「すごいね」と言われるだけでそこから何かを生み出す関係性になることは難しいでしょう。実はその動物を飼っていない人が実業家で犬に思い入れがあって犬のトリマーに投資するとなどの特殊例があれば別ですが、その狭い層に評価されるために犬のトリマーで食っているわけではないと思います。犬は国内で7,106,000頭も飼われているみたいなので、その人たちに評価される犬のトリマーになるのが一般的かと思います。
犬のトリマーに限らず、あなたが今頑張っている資格勉強は会社で資格手当がもらえるからやっているとか、評価者を意識せずに行なっているのであれば、それは「成長」から外れる形になる確率が高いでしょう。評価者を意識せず「身につけておけば将来何かの役に立つだろう」という程度であれば、評価者に対しての「成長」スピードが鈍化するだけなので、やらない決断をするというのも成長するための近道になる可能性もあるでしょう。
評価者を誰に置くか
終身雇用が崩壊された現在は「会社と心中して添い遂げるんだ」というキャリア願望を持っている人はごく僅かになっているかと思います。「田舎でカフェ経営をして余生を過ごしたい」とか「南の島でのんびり暮らしたい」とかのなりたい姿から逆算して「20年後はこうなりたい」「10年後にはこれを成し遂げたい」というプロセスやロードマップを敷いて現在のtodoに落とし込むのが綺麗な計画です。
その一連の流れの中で、今いる会社の中の評価者って人生のうちのかなり低い割合になるかと思います。その先を見据えて「10年後にこれを成し遂げる頃には、この人に評価されるかもしれない。この人に評価されることによって20年後のなりたい姿に近づけるかどうか検討してみよう」という、いわゆる評価してくれるターゲットというものを明確に決めて活動をする必要があります。
例えば「日本の農産物の良さを広げたい」という夢を持っているとします。多くの農家は地域の協会に農産物を卸して全国や世界に輸送されるという運びとなります。「農産物の良さを広げるためには単純に農業をやっているだけでは広げられないな」と思ったら営業活動やマーケティング活動にテコ入れをする必要があると考えます。すると、すでに企業化した農業法人があったり個人事業主として販路を拡大させようとしている農家、Tiktok配信を頑張っている農家など、すでにそこに活路があると見出して取り組んでいる人はたくさんいます。まずはそれらの人と話してみて、どういう人間が評価されるのかや自分の仮説があっているのかどうか確かめるというのを継続的に行なって、今の自身が行なっている経済活動のtodoに落とし込んでいきます。そうすることで「日本の農産物の良さを広げたい」という夢に近づいていけるでしょう。現職の勤務先によってはその夢を目指す上での評価者が社内にいる可能性はあるかもしれませんが、それは勤務開始時点でやりたいことの本筋と環境が合致していないと、そのシチュエーションを生み出すのは難しいでしょう。
そのため、評価者は現職の直属の上司や同僚とは限らず、外の目にヒントがあり、そこに評価されることが真の成長と言えるのかもしれないですね。
私が「成長」という言葉が嫌いな理由
ここまで書いて、個人的に「成長」という言葉が嫌いな理由を書きます。簡単にいうならば結局のところ誰かに媚びないといけないという結論になるからです。
論理的思考性を極めれば極めるほど、コンサル業界やデータを扱うような世界などでは「成長」と言えるようになるでしょう。逆に論理的思考性を極めることによって直感で判断ができなくなったり、大量生産ができないと非合理と判断されることによって、本質を見失うことで退化とも言えたりします。
例を挙げるなら文字や言葉などもそうですね。「教」の旧字体「敎」は書きます。この文字の成り立ちを共同通信社の記事から引用します。
簡略化することによって筆記において画数が減り、印刷では使用するインクが減り、字体が簡単な字と揃えやすくなったりと「進化」の面を知ることはできますが、本来の「枝や鞭を持って、何かを打つ」という「教」の本質的な意味を知ることができなくなるため、その面では「退化」とも言えるかもしれません。つまり経済的には進化といえますが文化的には退化と捉えられてもおかしくはありません。
※昨今は体罰などの取り締まりが強くなっているのである意味「教」が正解とも言えますが、今回は「本来の由来を知る」という内容とは別件になるので差し置きます。
なので個人的には、人の変化があった時は「なんか変わったね!」「これがこう変わったね!」って褒めることが多いです。なぜなら話し相手にとっての本当の評価者が誰かわからないからです。これを一概に「成長したね」っていうことで「そういうつもりじゃなかったのにな。。」って思われることもあり得ます。
逆に私は、人から「お前はもっとこの部分で成長しろ!」って言われるのをものすごく嫌います。特に世代が離れると、人の意見に逆らわずに我慢する、「人の言うことを素直に聞くことが成長」という世界観で人生を歩んでいる方が多いので、「あなたの考える成長と私の考える成長は違うんです」と腹の底では思ってます。
この記述だけ見るとひねくれ者と思われがちですが、出世ではなく副業や転職でお金を稼げる時代だから現代人が出世欲がない人が増えたといわれる昨今なので、潜在的に同様な考えを持っている人はそこそこいるのではないかなと勝手に思っています。
変化を楽しみましょう
以上で「成長」という言葉を深掘ってみた上で、自分が「成長」という言葉を使うのが嫌いな理由を簡潔に書きました。このnoteを読んでくださった方には、1年前の自分自身と比較してみて、
・今まで成長だと思っていたことの裏返しってなんだろう
・今の活動って評価者を見据えた上で有意なものなのか
・今のキャリアを耐え凌ぐための一時的なものになっていないか
を再確認しながら、より有意義な将来を過ごしてもらえたらと思います。最後までお読みいただきありがとうございました!
※言葉について噛みついたようなnoteではありますが、私は気難しい人ではありません。むしろ直感で生きてのほほんとしてます。
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