経済についての議論が紛糾する理由:エネルギー的価値と形而上的価値

第1章 経済の根本はエネルギー

1.1 経済における定量と定性の二面性
 経済を理解するとは、社会を理解するという事であるため、百家争鳴の状態になるのは当然である。経済についての議論が紛糾する理由として、そこに含まれる曖昧さを指摘できる。経済には定量的な面と定性的な面があり、そのような二面性が議論を複雑にしているのであろう。
 学問の分類として文系と理系がある。例えば哲学や法学などは定量的である必要はなく、定性的でも可とされる。その一方で物理学や数学などは定量的である必要があり、定性的では不可とされる。経済学が対象とする領域は非常に広く、その両方の見地から考察できるという特徴がある。しかしそれを言い換えれば、経済学の輪郭は曖昧で、その全体像は明瞭でないという事でもある。
 定量分析こそが真の科学であり、それのみが正しいという考え方がある。それは一般的にはまずまず妥当な解釈であると言える。しかしそれを裏返して、定性分析は非科学であり、それは誤っているとするのは論理の飛躍である。
 人間性には定量的な測定では評価しがたい部分がある。幸福な人生とか豊かな社会についての是非善悪は主観的つまり定性的に判断される。経済学の究極的な目標は良い経済状態を実現させる事にあると言える。しかし良いをどう評価するかという点は難問である。GDPは一つの指標にはなるが、その数字の大小と幸福は必ずしも一致しない。主観的な価値の数値化は困難な問題であり、たとえ無理に数値化したとしても、やはりそこには重大な誤差が残る事になるであろう。
 人間性という曖昧な対象を扱う場合には、正しい思考法であるはずの定量分析は必ずしも正しいとは言えなくなる。定量的な見方だけでは、人間性に関する肝心な部分を見落としたり、歪める事になるのは避けられない。
 実学と呼ばれる学問では、理論的な知見を得て、それを現実の中で実践するという流れになっている。経済学も同じように、まずは理論的に理解できる事を明確にして、その上で、それに立脚した政治を行うのが順序であろう。
 そのためには、経済的な現象について、定量的領域と定性的領域を区分する必要がある。その二つについては、客観と主観、物質と精神などというようにも表現できる。名称はともかく、両者の区別を明確にし、その関係性を理解する事によって、無用の混乱を回避できると思われる。

1.2 エネルギー的価値と形而上的価値の区別
 物質的な運動の根本はエネルギーである。同じように、経済的な現象の根本もエネルギーであると言える。しかしそれは経済の半面であり、もう半面をも考慮に入れる必要がある。価値はエネルギー的価値と形而上的価値の二つに分類できる。商品の価格は一つの数字で表わされているが、それはその二つの価値の合計値であろう。
 例えば高価な肉と安価な肉を比べると、エネルギー的価値としては同等であるが、形而上的価値としては差があるので、つまり美味いか不味いかの違いがあるので、その差が価格に反映される。また原材料や実用品の価格はほぼエネルギー的価値で占められていると言える。それとは対照的に、贅沢品や芸術品の場合、その価格の大部分は形而上的価値である。
 極端な例として、ピラミッドを挙げられる。ピラミッドに実利性は特に無く、その建造はエネルギーの愚かしい浪費である。しかし多くの人はピラミッドを見ると、畏敬の念をも覚えるはずである。そのように相反する感情を覚える理由は、エネルギー的価値だけでなく、形而上的価値でも評価されるからであろう。物質主義的な人は少数であり、ピラミッドに形而上的価値を見出すような気質の人の方が多数であるため、世界遺産に登録されたり、人気の観光地になっているのであろう。
 下等な動物は物質的世界の中だけに生きている。いわば彼らは食うために生きているのであり、満腹すれば寝るだけの存在である。ただしエネルギーの観点だけから言えば、それは合理的な方針である。
 人間も生命の維持にエネルギーは必要である。しかし「人はパンのみに生きるにあらず」と言われるように、物質的な欲求だけではなく、精神的な欲求も持っている。趣味や遊戯や娯楽などは特に何かの役に立つわけではないが、それらへ多大な手間と費用をかけるのが人間である。当然ながら、そのような行為はエネルギーの消耗である。しかし無意味な消耗ではなく、精神的な報酬が発生している。
 別の表現を用いると、エネルギーを失うが、その代りに主観的な形而上的価値を得るという形である。そのような変換が経済活動の本質あるいは目標であると言える。
 生存上の有利不利で言うと、エネルギーを無駄に消耗する事に喜びを見出すという気質は、短期的には不利に働くはずである。しかし長期的に見れば、その損失よりも大きな見返りを得られるのであろう。
 歴史的に見て、多くの技術的な革新の背景として、実利というよりも精神性が動機になっている。好奇心や冒険心に溢れた物好きな人が採算を度外視して、研究自体のために研究をしてきた。そのほとんどが徒労に終わるとしても、百に一つでも成功すれば、全体的な損失を補って余りあるほどの利得が生じる。このように考えれば、一見すると不合理のような気質も実は合理的であると言える。

1.3 エネルギー的価値と形而上的価値の関係
 経済活動とは、社会の中の有形無形の価値を増加させる行為であると言える。すでに述べたように、価値には二種類ある。そのように分類する事も重要であるが、その両者の関係を理解する事もより重要である。
 その両方を同時に向上させる事ができれば理想的であるが、多くの場合で形而上的価値を創造するために、エネルギーを消耗する必要がある。より良い商品を生産するためには、より多くの物的・人的資源を投入する必要があるというのは当然である。別の言い方をすると、一般的に形而上的価値の増加が発生するなら、何らかの形でエネルギーの減少も発生するはずである。社会を全体的に見ると、そのようなプラスとマイナスの両方が発生するはずであり、良い所ばかりに注目するのは不適切である。
 政治家は社会を豊かにすると主張する。その方針自体に問題は無いが、政治家は都合の良い所だけを強調するという悪癖を持っている。社会を豊かにするためには、つまり形而上的価値を増加させるためには、エネルギーの消耗を甘受する必要があるが、その負の面に触れないのは偏狭な見方である。
 順序としては、活動が行われ、余剰のエネルギーが蓄積され、それは分配され、消耗され、形而上的価値が創造されるという流れになっている。為政者には広い視野を持つ事が求められるのであるが、多くの政治家はその前半部分よりも後半部分の方により強い興味を持っているようである。
 経済的な発展の背景には技術的な向上がある。人類が今日の繁栄を実現できた理由は、エネルギーの量や効率を格段に増加させたからである。しかし経済について喧しく論じているのは、技術者よりも政治家の方が多いようである。彼らは必ずしもエネルギーという観点に立っているわけではない。
 パイをどのように分けるかと、パイをどのように大きくするかは別個の議論である。パイを細かく切り分けても、総量が増えるわけではない。しかしパイ自体が大きくなれば、分配に関する問題の多くは容易に解決できるようになる。

1.4 形而上的価値の複雑な特徴
 最低限の生活を送るだけなら、それ程多くのエネルギーが要るわけではない。食料や燃料をたくさん持っていても、実用的な使用量には限度があるので、持て余した分は貯蔵として積み上げるだけで、生活水準が上がるという事にはならない。
 一方で形而上的価値は量よりも質の問題になる。贅沢品とは、非実用的な形でエネルギーが投入された商品であると言える。贅沢の度合いに際限は無いので、エネルギーの余剰がある限り、その形而上的価値を増加させる事が可能である。
 もう一つの特徴として、人は贅沢や形而上的価値に慣れるという性質を持っている。贅沢品を入手しても、その喜びを味わえるのは最初だけで、すぐに飽きてしまい、さらに大きな贅沢を欲するようになる。江戸時代に比べると、現代では何十倍あるいは百倍以上のエネルギーを使っているというが、現代人は贅沢な生活をしているという実感を持っていないはずである。
 マルサスは食料の増加と人口の増加を比較して、後者の方が速いので、不幸は無くならないという暗い主張をした。同じように、エネルギーの増加と贅沢の慣れを比較できる。鋭意努力して前者を推進させても、後者が追いついてしまえば、振り出しに逆戻りである。その場に留まるためには、全力で走らなければならないという赤の女王仮説は幸福論の文脈でも使われている。
 エネルギーを形而上的価値へ変換させる事について、それをどの程度どのような形で行うかという判断は重要な政治課題である。ただその評価には主観が絡むので、決定的な結論を出す事は困難である。その変換を全く行わないという方針もあり得るかも知れない。例えば質素倹約を旨とする清貧の思想はそれに近いと言える。しかし形而上的価値の範囲には文化・芸術・福祉なども含まれるのであり、それらを充実させるためには余剰エネルギーが必要である。
 繰り返しになるが、エネルギー的価値と形而上的価値という二つの価値があり、前者は定量分析の対象であるが、後者は定量分析の範疇に収まらない。現代の社会構造の特徴として、前者に比べて後者は著しく肥大している。虚実入り混じる世の中に狂い咲く徒花の美しさは人目を引くかも知れないが、それは実を結ぶ事なく散る儚い存在である。
 社会には利害の対立があるので、多少の論争が生じるのはやむを得ない。しかし原理原則を無視する事はできない。どのような政治的立場を取るにせよ、経済を考える時にはそのような事情を勘案し、虚実・順逆・主従の見分けを付けるべきであろう。

第2章 生態学的な見方から

2.1 社会の中の独立栄養生物と従属栄養生物
 経済学とは個人や集団の行為の考察であるが、それは生態学に似ている。自然界には植物・草食動物・肉食動物・分解者など、多種多様の生物が存在するが、それらは独立栄養生物と従属栄養生物に大別される。
 前者はエネルギーを与える生産者であり、後者はエネルギーを受ける非生産者である。後者は前者に依存しているという関係である。前者が繁栄すれば、それに依存している後者も繁栄できる。逆に前者が衰退すれば、当然ながら後者も衰退せざるを得ない。後者は前者にいわば寄生しているので、後者だけが単独で繁栄する事はできない。
 ライオンは百獣の王などと呼ばれ、尊敬を受けている。食物連鎖を表わす三角形の絵図などでも、肉食動物は頂点に位置付けられている。しかしエネルギーの観点から言えば、肉食動物は他者に依存して生きている存在である。
 社会的な職業や地位や産業についても、生産者と非生産者に分類できる。現代では分業が高度に進んで複雑な状態になっているため、伝統的な社会を例に取ると、生産者として農家・漁師・鍛冶屋などを挙げられ、一方で非生産者として貴族・僧侶・芸術家などを挙げられる。前者よりも後者の方が高尚な存在であると見做されているかも知れない。しかしエネルギーの観点から言えば、後者は前者に依存している。
 余剰エネルギーがあると、人を含めて物事を動かす事が可能になる。経済を回すという表現は抽象的であるが、回転にはエネルギーを要する。経済を回す原動力を生み出しているのは農業・工業・運輸などの業種であり、娯楽・芸術・福祉などの業種は受動的に維持されている形である。

2.2 いい加減な産業の分類
 社会制度として各種産業は細かく分類されている。しかしそのやり方は管理や規制のためであり、エネルギーの要素はあまり考慮されてないようである。
 例えば醸造は製造業に分類されている。製造というと、語感として無から有を生み出しているかのように聞こえる。しかしエネルギーの観点から見ると、醸造とは生産ではなく、むしろ消耗である。醸造とは文字通り穀潰しであり、エネルギーの多い穀物を原料にして、エネルギーの少ない酒という製品を作るという行為である。
 畜産業も同じような理屈になる。家畜を1kg太らせるために10kgの飼料が必要であるとすると、10kgの食料を1kgの食料に変換しているに等しい。つまり畜産とは手間暇かけて、エネルギー量を10分の1に減らす行為であると言える。ただし廃棄食品の再利用とか、雑草しか生えない痩せた土地の活用などを考慮する必要性はあるので、単純な断定はできない。
 第三次産業という言葉についても分類上のいい加減さを指摘できる。第一次産業にも第二次産業にも当て嵌まらない業種を第三次産業という名称で括っているに過ぎず、やはりそこにもエネルギーの観点は無いように思われる。例えばエネルギーの生産性に寄与する運輸業も、エネルギーの消耗である娯楽業も、同じように第三次産業という扱いを受けている。
 ただし多くの場合で生産性の正確な評価は困難である。例えば宿泊業や飲食業などについて、どこまでが効率的な分業で、どこまでが贅沢な消耗かを線引きする事は難しい。また宗教を信じるとか、ペットを飼うなどは特に何かの役に立つ行為ではない。しかしそれらが精神衛生上の効果を持つなら、言わば広義の医療というようにも見做せる。

2.3 雇用政策の誤り
 雇用の増加つまり失業の低下とは、為政者が目指す目標の一つである。失業を減らすためには技術的な進歩を実現させる事が正攻法になるであろう。つまり社会全体のエネルギーの生産性の向上を目指すべきであろう。より多くの余剰エネルギーを得られれば、そのエネルギーを利用して、消耗的な雇用をより多く維持できるようになる。極端な例を出すと、穴を掘ってまた埋める仕事をするための人達を食わせる事が可能になる。そうなれば失業が減って、雇用が増えるという結果になる。
 ただしそのような改善は形式的であり、それを問題の解決と見做すのは不適切である。そもそも雇用の定義に問題を指摘できる。例えば失業保険を貰って売れない小説を書いている人も、あるいは税金を貰って誰も通らない道路を作っている建設業者も、両者は共にエネルギーの消耗者である。しかし統計としては前者は失業に加算されるし、後者は雇用に加算されるであろう。
 雇用について一つの誤解を指摘できる。雇用の増加とエネルギーの増加が同一視されている場合もあるが、そのような考え方は正しくない。生産的な雇用と消耗的な雇用を区別せず、その二つを同等物と見做して一緒くたに扱ってしまうと、失政に繋がり兼ねない。非生産的な業種における雇用の増加は同然ながらエネルギーの消耗の増加を意味する。
 世の中には無くなっても本人以外は困らないという職種がある。例えば下請けへ丸投げして手数料を取る仲介者、一人で出来る業務を数人でする公務員、会議と称した雑談ばかりをする管理職などである。彼らは体裁上は労働者のように見えるし、社会的にも雇用という扱いを受けている。しかしそれらの職種はエネルギーの生産に寄与していない。
 社会的な評価を受けているかどうかの点も、また個人の立場として苦労を伴うかどうかの点も、エネルギー生産の有無とは別の問題である。例えば画家や俳優という職業がある。それらは大衆から尊敬されているし、努力と才能が求められる職業である。しかし彼らがいかに心身をすり減らして作品に打ち込んだとしても、エネルギーの観点から言えば、それらの行為は消耗である。
 雇用あるいは労働という言葉の語感の問題がある。労働と生産を同義語のように扱うのは伝統的な考え方であると言える。一昔前の時代では、無駄な浪費や遊ぶ余裕は非常に少く、ほとんどの人が生産に寄与する労働をしていたし、またそうせざるを得なかった。そのような歴史的な経緯からは、労働と生産が同じ意味の概念として見做されるようになったのは当然である。
 一方で今日では世の中が随分と様変わりして、消耗的な娯楽業の割合がかなり増えた。そのため労働と生産を同一視するのは齟齬が大きいであろう。しかし旧来の言語感覚がまだ根強く残っているようである。その辺りの曖昧さは経済政策の失敗の一因になり得る。

2.4 曖昧な景気論
 経済という言葉自体も多面的な意味を持っているが、景気という用語も曖昧であり、精神的な高揚の意味にも、あるいは物質的な活動の意味にも取れる。
 熱力学が発展する以前では、物理的な運動についての理解が未熟で、例えば永久機関の作成が真剣に考察された時代もあったが、今日ではそれは不可能であるとされている。しかし経済の議論においては、特に景気論においては、そのような原則が蔑ろにされる場合もある。その結果として、現実的には有り得ないような都合の良い理屈によって、問題の解決が図られるという事態になる。
 より多く消費すれば、より景気は良くなるなどと言われる。商業的な宣伝文句だけでなく、経済学的な議論でもそれに類する表現は散見される。良い悪いは定性的な評価であるという点を別にしても、そのような考え方は不適切であろう。
 例えば自然災害などが発生すると、買い替えで消費は増えるので、上記の理屈から言えば、景気は良くなるという結果になるはずである。消費が自発的であろうがなかろうが、売る側にとって違いは無いためである。しかし常識的に考えて、災害によって社会が良くなるはずはない。そのような理論的な混乱が生じる背景として、生産という言葉についての誤解を指摘できる。
 生産とエネルギー生産が同一視され、その二つが区別されていないようである。しかし両者は常に一致するわけではない。生産と呼ばれる行為が必ずしもエネルギーを生産するわけではなく、むしろエネルギーを消耗するという場合もある。例えば娯楽や芸術などの業種においては、エネルギーは生産されておらず、エネルギーを消耗する事によって、それらの有形無形の商品は提供されている。エネルギー的価値が形而的上価値に変換されるという形である。
 エネルギーの観点から生産者と依存者を区別して、その二者の立場の違いや関係性を明確にするべきであろう。前者がより多くのエネルギーを生産できれば、より多くの依存者を支えられる。後者の割合が増えると、社会の中で消費を推奨する声が大きくなるのは当然である。
 ヤマネコとウサギの個体数を調査した研究がある。両者共に増加する期間と減少する期間があり、二つの周期には若干のずれがあるが、10年程度で一巡するようである。
 ウサギが増加するにつれて、それを食うヤマネコも増加する。両者はある程度まで繁殖できるが、当然ながら限度がある。ウサギが増加しなくなれば、それに依存するヤマネコも飢えざるを得ない。多くのヤマネコが比較的少ないウサギを奪い合うという悲惨な状態になる。両者の個体数は減少していき、やがて下がり切った所で再び反転し、新しい周期が始まる。そのような繁栄と衰退は経済の縮図のようである。
 社会には政府という管理者が存在する。政府による経済活動への介入をどこまで許すかについては様々な見方がある。市場に参入する企業が多すぎるという問題があったとしても、そこへの規制は経済活動の自由を侵害する事にもなる。また好況に沸く時期に水を差すような政策は歓迎されないであろう。しかし市場を成り行きのままに任せるのも、過当競争などを通じて、経営難に陥る企業が出てくるので、それも問題であろう。
 より一般的に言うと、あちら立てればこちらが立たないというトレードオフの関係が経済の特徴であり、政府による介入の是非がどうであれ、完璧主義を目指しても、どこかにしわ寄せが行く結果になるであろう。
 景気論が声高に叫ばれる場合、良い状況をさらに改善するというよりも、悪い状況を平常に戻すという目的が念頭に置かれている事が多いようである。倒産に瀕した企業をいかに救済すべきかという文脈で論じられる景気論については、経済の議論というよりも、むしろ福祉の議論と呼んだ方が正確であろう。

第3章 心理的な事情

3.1 幸福の実現の難しさ
 生産性の向上は機械化によって実現される。機械化の究極的な形態は全ての手作業の自動化である。未来予想図の一つに、ロボットが全ての仕事をして、人間は遊んで暮らすという社会がある。そこでは人は誰も労働していないので、言わば失業率100%である。
 現在の先進国はその世界に近付きつつある。かつては約9割が農家であったが、現在ではそれが約1割にまで低下している。機械化などの技術的進歩によって、90人が100人を食わせていた状態から、10人が100人を食わせている状態へ変化した。
 娯楽産業の割合が多いという事は、言い換えれば、多くの贅沢をできる社会になったという事である。古い価値観では食えれば十分であった。しかし特に先進国においては、食えるのはもはや当然で、いかに精神的な満足を得るかの点が重要視されている。
 動物は満腹すれば、何もせずに寝ている。エネルギーの節約という意味では、それが最も経済的な行動である。しかし幸か不幸か、人間は一日中寝るなどという事をできない。人間は無駄と知りつつも何かをして暇潰しをせざるを得ないという厄介な性質を持っている。当然ながら、そのためには単に生命を維持するよりも多くのエネルギーが必要になる。
 現代人は昔に比べると、非常に多量のエネルギーを消耗して生きている。単純に数字だけを見ると、エネルギーが2倍になれば、幸福も2倍になると考えたくなるかも知れない。しかし物質的豊かさと精神的幸福の二つは必ずしも比例しない。例えばGDPと幸福の関係を調査した研究があり、それによると、GDPが上昇しても、幸福は横這いであるという結果が出ている。幸福という主観的感情にはそのような機微があり、それが経済論が複雑にしている。
 生産性だけでは幸福を測れない。その理由として、まず贅沢には慣れるという心理的な事情を指摘できる。高価な商品を手に入れると、最初の内は幸福であろう。しかしやがてすぐに慣れてしまい、さらにより高価な商品を欲するようになる。例えば宝くじの高額当選者が浪費を重ねて、遂には破産するという話がある。それは贅沢には慣れがあるという事と、物欲には際限が無いという事を示している。
 いくら贅沢をしても心底からの満足を得られないという現象について、諺では「欲にきりなし、地獄に底なし」と言われているし、また現代の学者はそれをヘドニック・トレッドミルと呼んでいる。
 もう一つの理由として、幸福は相対的な問題であるという点を挙げられる。何を所有できるかという点よりも、他人が所有していない商品を所有できるかという点が幸福においては重要である。多くの人は自分の身の回りの人達に引けを取らないように努力している。しかし全員が平均以上の生活水準を持てるという事は理論的にあり得ない。例えば誰もが高級車を所有するに至れば、もはやそれは大衆車であり、やはり高級車への切望は消えない。またそのような争いには終末点が存在しないだけなく、不合理な状況へと突き進む事になる。
 そのような例として、北米の原住民のポトラッチという風習を挙げられる。より多くの物財を無駄に破壊し、そうする事が社会的な地位の誇示になったという。現代の価値観からすれば、そのような行為は馬鹿げているように思われる。しかしエネルギーの消耗という点において、現代人も本質的に同じ事をしている。
 それはソースティン・ヴェブレンのいう衒示的消費であり、ロバート・フランクのいう地位財の追求である。またジョルジュ・バタイユは人間のそのような特徴を「呪われた部分」と呼んでいる。
 動物の世界でも同じような事情がある。鹿は雄大な角を持ち、孔雀は華麗な羽根を持っている。それらを維持するためには、より大きなエネルギーを要する。見栄えのためだけにそのような邪魔な物を身に付けるのは合理的ではない。しかし見栄えが悪ければ、性淘汰に負けるので、捨てるに捨てられないし、むしろより見栄をより良くする必要があるという状況に陥っている。

3.2 依存症のような消費社会
 消費社会においては、大衆の行動の目的は商品の入手ではなく、商品の入手によって得られる幸福であろう。しかしそのような幸福は長続きしないので、より高価な商品への渇望が生じる事になる。この悪循環は薬物などの依存症と似ている。厚生労働省は依存症の説明として、「やめたくてもやめられない」、「徐々に悪化してしまう」、「本人も依存症と気づいていないことが多い」などの点を挙げている。現代社会の消費行動にもこのような特徴を指摘できる。
 夏目漱石の小説に、「忰は親譲りの背広をだぶだぶに着て」(『虞美人草』)とか、「また靴の中が濡れる。どうしても二足持っていないと困る」(『門』)という記述がある。その当時は物が全般的に貴重であったという事を窺える。雨で濡れた靴を穿かないで済むように、もう一足を欲するは妥当であろう。しかし現代人はすでに十足を所有しているのに、さらにそれを増やしたいというような欲望を持っている。
 物が希少な社会では質素倹約が旨となるはずである。しかし大量生産が可能になると、企業にとってはいかに在庫を捌くかが問題になる。商品を多く売り付けるためには、物を大切に扱うという伝統的な価値観は支障になる。それを取り払うために、企業はメディアなどを通じた販売戦略を陰に陽に行っている。
 その影響を受けた大衆は多量のエネルギーを消耗しているのにもかかわらず、自分ではそのような認識をあまり持っていない。また慣れのためにそれが普通で当然の振る舞いであると思い込んでいるようである。
 1930年にケインズは週15時間労働の時代の到来を予想した。今日では生産性は格段に伸びているので、余剰エネルギーを長く細く消耗すれば、それに相当する余暇を維持できるはずである。しかし現在の消費社会では余剰エネルギーは太く短く消耗されている。労働によって余剰エネルギーを得ても、それを湯水のように使ってしまえば、当然ながら、またすぐに労働しなくてはならない。
 労働の対価として商品を入手し、それによって精神的な満足を得られるなら、その取り引きは有益と言える。しかしそれらを提供する側が用いる宣伝文句におだてられたり、脅されたりして、強迫的に購入しているのなら問題である。一時的な享楽のために長時間労働の苦痛に耐えるのは割に合わない事である。
 そのような指摘は消費社会の到来のはるか前からあって、例えば徒然草には、「名利に使はれて靜かなる暇なく、一生を苦しむるこそ愚かなれ。」とある。また老子は「その食を甘しとし、その服を美なりとし、その居に安しとし、その俗を樂しみとし」(井上秀天訳)というように、高望みをしない生き方を説いている。
 技術的な進歩には手放しで喜べない面がある。物質的な豊かさによって得られる幸福は長続きしないし、また機械化などによって職を奪われる不幸な人も出てくる。
 一つの解釈として、世の中が進んでも、全体的な幸福は向上しないし、むしろ不幸になる人を後に残すという見方も可能である。そのような立場からは、幸福になる事よりも、不幸にならない事を目指すという思想が生じるであろう。それを実現するためには、社会の変化を許容せず、現状を保持する事が必要になる。
 無知は幸福であると言われるように、小国寡民の社会は理想的かも知れない。しかしそこには致命的な短所もあって、外部からの侵略に対して無力である。ユートピアはどこにも無い場所という意味であるが、現実の世界にそのような社会がほとんど実在しない理由はそれであろう。

3.3 物は多ければ多いほど良いという価値観
 多くの現代人は肥満という病理を抱えている。かつて飢餓はありふれた状態であったため、人間が強い食欲を持っているのは当然である。しかし今日の社会では食物を容易に入手できるため、健康問題が生じている。その例のように、昔と今とでは状況が異なっているにも関わらず、旧来の習慣や伝統的な価値観が残っていれば、個人においても、社会においても、様々な齟齬が生じるであろう。
 セイの法則という用語がある。それは「供給はそれ自ら需要をつくりだす、という命題に要約されている経済学上の見解で」(『コトバンク』)あるが、解釈の難しい主張である。まずはセイが18世紀の人物であるという点に注目できる。
 現代は何でも使い捨てにされる世の中であるが、昔は紙一枚でも紐一本でも大切にされた。物が希少なら、つまり物不足なら、物への需要は常に高く、作られた物は余らずに売れるであろう。そのような状態の社会では、物は多ければ多い程良いという価値観が一般化するのは自然である。しかし現代では物は必要以上に溢れているので、その考え方は必ずしも成立しない。
 技術の発達によって大量生産が可能になると、最初の内は順調に売れる。しかし普及が進むにつれて販売数は減少して行くので、やがて生産量の調整が必要になる。自動車を例に取ると、一台目は実用品であるが、一人で二台を所有する事は非実用的であり、それは贅沢品と見做されるべきであろう。
 しかし物は多い程良いという思考癖に経営者が取り付かれていると、作れるだけ作って、後から販売先を考えるというような事態になり兼ねない。企業が在庫を持て余すと、国内外での政治的な軋轢の原因になる。
 近代に入って、人類は科学革命と産業革命というかつて無い変動を経験した。その社会変化は滑らかではなく、幾度も躓きながらの試行錯誤を通じた進歩である。経済政策においても、変遷という以上に混乱が見られる。例えば20世紀の大恐慌を経て、需要を拡大すべきであるという見解が生まれ、それへの反論として、貨幣の管理を重視するマネタリズムが考え出され、また今度は供給側の強化が提唱されたりと、経済学史も目まぐるしく動いている。

3.4 一年単位という伝統的な区切り
 長期的な見方は重要であるというのは陳腐な表現であるが、やはりそれは真実であろう。
 企業などの決算は一年毎に行われている。それは農業に由来する歴史的な習慣であると考えるのが自然であろう。農業が中心の社会なら、それでも特段の問題は無い。しかし現代は第二次産業や第三次産業を中心とする社会であるため、一年という単位に大した意味は無いし、むしろそのような区切りは有害でさえある。
 農業の場合、特に穀物の場合、秋の収穫の時期を迎えれば、豊作か不作かの結果が明確に出る。しかし現代の工業や娯楽業においては、投資から回収までの期間が遥かに長いし、またそれが何年になるのか予測できないという難しさがある。設備や施設を建造し、その商業的な成否を判断するためには、場合によっては5年とか10年という時間が必要であろう。
 またどこで区切りを設けるかについて、恣意的な操作が可能である。ある事業が赤字続きでも、追加投資などをしながら、失敗したという結論をいつまでも出さず、将来に先送りにするというご都合主義もあり得る。
 現代の多くの大企業では経営と所有が分離している。それは良し悪しであるが、短所として、雇われ経営者は企業のためというよりも、株主の利益のための行動を取り勝ちである。投機的な株主は短期的な利益を狙っている場合も多いので、経営者がその影響を受ければ、意思決定も刹那主義的になる。
 株主は必ずしも愛社精神を持っているわけではないので、長期的には自滅的であっても、株を高値で売り抜けられれば良いという立場を取るであろう。企業の永続的な発展などを考慮せず、大量の人員整理などによって目先の黒字化を優先するという方針を支持するかも知れない。
 一年単位の決算はいわば単なる習慣であり、農業を別にして、その数字で一喜一憂するのは不適切であろう。社会の状況によっては、企業が三年連続で赤字になる事ぐらいは十分に考えられる。しかしその三年という数字だけを見て、三戦三敗した無能の経営者というような扱いをするのは公正ではない。
 そのような事情は政治家にも当てはまる。彼らの任期は4年とかであるため、今すぐ良い結果を有権者に示したいという短期的な思考法に傾き勝ちである。

第4章 進化論的な正しさと論理的な正しさ

4.1 競争と福祉という二つの原理の相克
 物事を考える場合には、どのような前提を取るのかを明確にする事が望ましい。経済については、侃々諤々の議論が連綿と行われているのであるが、その原因の一つとして、競争の原理と福祉の原理の区別が曖昧であるという点を指摘できる。
 その二つの原理は相反する概念であり、また正しいのはどちらかという議論は不毛であろう。それらを一つの理論として矛盾無く統合する事は不可能であるとしても、現実的には何らかの妥協点を見出す事が要求される。
 競争とは生産であり、福祉とは分配であるとも言える。余剰生産物を退蔵するぐらいなら、福祉という形で有意義に用いるべきであろうし、またより多くを分配するためには、競争の促進による生産性の向上が必要である。一国の運営は競争の原理と福祉の原理の両方で成り立っている。しかしその二つの折り合いをつけるのは非常に難しい問題である。
 それを実際に行っているのが政治家であるが、彼らの社会的な評価は必ずしも良くなく、むしろある種のいかがわしさを持たれている場合もある。それは当然と言えば当然である。どのような政策を行っても、全員を納得させるという事は出来ない。取られる側は重い負担について、与えられる側は少ない給付について、苦情を訴えるであろう。政治家は各方面からの恨みを受けるのも仕事の内である。
 また競争と福祉の二つの政策を同時に採用するのは矛盾である。政治家はその矛盾に気付いていないわけではなく、矛盾であると知りつつ強行しているのであろう。現実面においても、論理面においても、ある程度の無理を強行するという気概あるいは厚顔さを政治家は持っている。
 その点において、政治家に似ているのが医者である。副作用の無い薬は無いと言われるように、薬には毒性がある。しかし医者はその欠点を承知の上で、効果の方が勝ると判断して、患者に薬を投与する。
 相反する二つを妥協させるとか、清濁併せ呑むという行為をすると、わだかまりを残すので、心理的な負担が重い。明確に白か黒かをはっきりとつけられれば、そのような煩悶も生じないのであるが、現実はそう都合良く出来てはいない。ただし理論化する場合には、現実に存在する夾雑物をある程度無視するという事が許容される。

4.2 矛盾を嫌う理論家
 理論家は当然ながら、正しい理論を打ち立てようとする。しかし正しいとは何かという問題は難しい。否定によって定義するという考え方があり、その見方によると、誤っていなければ正しいという事になる。例えば背理法においては、矛盾があるから誤りであると見做される。
 哲学に止揚という用語がある。『コトバンク』によると、「低い次元で矛盾対立する二つの概念や事物を、いっそう高次の段階に高めて、新しい調和と秩序のもとに統一すること」である。
 競争と福祉の両者の原理の良い所取りをして、競争に伴う弊害を最小限に抑えつつ、福祉も充実させるべきであるなどという主張は理屈の上では可能である。しかしそのような議論は理想的であるにしても、机上の空論に過ぎないであろう。
 観念の世界から現実の世界に一歩足を踏み入れると、社会的な制約の影響を受けずにはいられない。今日の価値観を考慮すれば、マルサスが『人口論』で仄めかしたような見解を公言する事は出来ない。そのため明示的か暗示的かは別にして、論調が福祉の原理の方向へ傾くのは当然である。
 その一方で経済の議論する時に、市場経済の根本的概念である競争の原理を否定するわけにもいかない。相容れない二つの原理を統合しようとすれば、矛盾せざるを得ない。矛盾せざるを得ないのにも拘わらず、矛盾しまいとすると、やはり無理が生じる。そのような無理を通そうとするのは、純粋な理論家よりは、現実的な実践家の方であろう。
 経済論の中では、政治家が用いるような言辞がよく見られる。例えば景気を良くするとか、経済を回すなどの選挙公約のような表現がある。その解釈としては、自助努力の奨励のようでもあり、また共存共栄を謳っているようでもある。そのような曖昧な表現が使われる理由として、競争と福祉の両方の原理を成立させようとする狙いがあると思われる。

4.3 現代的な個人主義の流行
 競争か福祉かという問題をより根本的な形で言い換えると、私益か公益か、あるいは個人か全体かという問題に行き当たるであろう。それらの葛藤の問題を厳密に理解しようとしても、明確な答えを出す事はできない。ある人の自由を是とすると、別の人の自由が侵害されるという寛容のパラドクスに陥る。自由は重要であるが、制限も必要であるというような曖昧な答えにならざるを得ない。
 そのようなどっちつかずの中途半端な見解を持つと、感情的にすっきりとせず不快である。また現実的には、そのどちらかの選択を迫られる場合も少なくないが、どちらもあり得るという状態は判断に苦慮する事になる。
 近年の風潮として、全体や公益よりも、個人や私益が重視されるという傾向が強いようである。極右でも極左でも、教条主義を採用すると、難しい問題に対して、悩まなくても答えを得られるという気楽さがある。過度な個人主義が取られる背景として、そのような事情を指摘できる。
 正しいについて、二つの解釈が可能である。一つは進化論的に淘汰されないという見方であり、もう一つは論理的に矛盾がないという見方である。伝統的な政治思想の特徴として、中庸が重視されるなど、白黒はっきりしないという点を指摘できる。それは悪く言えば矛盾である。しかし現実の方が複雑であれば、それへの対処法も矛盾的にならざるを得ない。
 一方で、矛盾が無い事と正しい事を同一視するというような考え方がある。机上の理想論は現実から乖離するという欠点を持つが、理路整然とした美しさを実現できる。また正義か悪かの二値的な思考を取ると、認知的な負荷が少なくて済むという利点もある。
 ハイエクは『真の個人主義と偽りの個人主義』(嘉治元郎・嘉治佐代訳)という文章を書いている。その違いの説明として、彼はトックヴィルの見解を引用している。「ド・トックヴィルは次のように述べている。『民主主義と社会主義はただ一つの言葉、すなわち平等以外に、何の共通項も持たない。しかしその差異には注意しなければならない。民主主義は自由の中に平等を追求するのに対して、社会主義は束縛と隷属の中に平等を追求するのである。』」
 また後者の側へ傾く原因として、短期的な見方という点を指摘している。「自由主義的な、もしくは個人主義的な政策は、本質的に長期的な政策でなければならない。短期的な効果にのみ意を用い、それを『長期的には我々は皆死んでしまう』という議論によって正当化する昨今の流行のゆえに、我々は、典型的な状況を対象にして作成された諸規則にではなく、当面の特定の事情にあわせて作られた諸指令に依存せざるを得ないようになるのである。」
 ケインズの「長期的には我々は皆死んでいる」という主張はよく知られているが、シュンペーターはそれに対して、短期的な見方であると批判している。またシュンペーターは破壊的創造という矛盾的な言葉を残している。破壊の是非については、短期的か長期的か、あるいは部分的か全体的かによって、答えは違ってくるであろう。産業の衰退や企業の倒産など、法人や個人が市場から淘汰される事について、そこだけに注目すれば悲劇である。
 一方で、全体的かつ長期的に考えれば、新陳代謝の一環とも言えるわけであり、その意味では肯定できる事である。部分的かつ短期的に考えるとは、言い換えれば、目先の問題さえ解決できればそれでよいという方針であり、国全体の興亡という観点からは、いわば滅びの思想になるであろう。

第5章 社会的病理への対処

5.1 地獄への道は善意で舗装されている
 地獄への道は善意で舗装されているという言葉がある。状況が悪化していく過程の描写としては穿った表現である。
 近代国家において、主権は国民にある。しかしそれは形式的な話であり、現実的には学者・企業・官僚などが国の運営に対して強い影響力を持っている。その三者はそれぞれの形で、意図の有無は別にして、結果的に一国の衰退に加担していると指摘できる。悪あるいは不正の定義は難しいが、一つの解釈として、全体的・長期的に国力を損なう行為の総称であると言える。
 もちろん当事者たちは悪意を持っていないはずであるし、むしろするべき事をしているというのが彼らの認識であろう。しかしそれは部分的・短期的な見方に基づいている。全体的・長期的か、それとも部分的・短期的かの区別を付けなければ、改善しようとする努力が却って裏目に出るという結果になり兼ねない。
 政治家や民間企業は権力闘争や金銭的損得などのしがらみにとらわれやすい。学者はそのような俗事から超然として、正しい論を述べる事ができるし、またそのような役割を果たす事を期待されている。しかしその正しさについて、矛盾が無いという意味における正しさが追求されている事も少なくないようである。
 それを悪く言えば物事の単純化であるが、精錬というように肯定的に取れるのも事実である。矛盾の無い正しい理論は綺麗かも知れない。しかし現実社会には矛盾があるので、政治において妥協は避けられない事である。清濁併せ呑むとか、誤差を切り捨てるというような行為が必要であり、そのためには知性だけではなく、大胆さをも要する。非現実的な理想論に基づく経済政策は害の方が大きいであろう。
 現代では企業による利潤の追求は公認されている。しかしそれは無条件ではない。創意工夫による発見や発明を通して、社会全体も豊かになるという前提がある。しかしそのような社会的な約束事に反して、私益への追求のみが行われ、公益が蔑ろにされるという場合がある。特に斜陽産業などの企業は綺麗事ばかりでは経営を維持できないので、そのような傾向が強くなるであろう。
 その種の理非を正すのは官僚の役目である。しかし市場の公正性を確保すべき側の官僚が企業と癒着して、彼らの便宜を図るという事態は珍しくはない。
 官僚はすぐに悪者にされるが、彼らの側にも同情すべき事情がある。競争の原理と一部衝突するが、民衆を食わす事、つまり全員に職を与える事は国家の責務とされる。それに加えて、個人の権利を重視するという現代的な価値観の高まりもあるので、個人あるいは法人が市場から脱落するような政策を実施する事はより難しくなっている。
 またそこには心理的な問題も関係する。社会制度を変更すると、たとえそれが改善であっても、不利を被る企業や倒産に至る企業が生じるのは避けられない。官僚は秀才であるかも知れないが、必ずしも豪胆な精神の持ち主ではない。そのような悲劇が生じるという事態を避けたいと思うのは人情として当然である。
 また官僚が何らかの改革を行って、国家全体の発展を実現したとしても、彼ら自身は特に利益を得られるわけではないし、むしろ損失を被った企業から恨みを買う事になる。それは保身という観点からは賢い行為であるとは言えない。そのような事情があるため、官僚は前例主義や事勿れ主義に傾きやすく、その結果として、市場原理で言えば淘汰されるべきはずの企業が存続する事になる。
 なお官僚ばかりを非難するのは公正ではない。そもそもの政治体制にも問題がある。民主主義という制度は完全無欠ではない事は昔から指摘されている。一人一票の平等な社会といっても、現実的には圧力団体と呼ばれる集団が存在し、一部の少数派が強い政治力を持っている。
 一億人にとって一千円の有無は取るに足らない問題であるが、一千人にとって一億円の有無は死活問題である。全体として見れば同じ千億円であっても、一般大衆のために使った場合、広く薄くばら撒かれる形になるので、特に誰も感謝をしない。一方で、同じ金額を特定の集団のために使うと、強力な政治的支援を買う事ができる。そのような事情によって、一般大衆という多数派よりも、特定集団という少数派の方が大きな発言権を有するような現象が生じるのであろう。
 一般大衆が犠牲になって、その分だけ特定集団が肥大するという構造が成立すると、それを解消するのは容易ではない。非生産的な企業が増加していくと、社会全体として歪が大きくなり、不平や苦しみの声が高まる。しかし政治家がその現状に対して出来る事は限定的である。賢者の独裁という体制でもなければ、強権的な大改革は実現されない。

5.2 根本療法と対症療法
 為政者は社会の病理を治療する医者のような存在でもある。そのため政治家は経営上の苦しみを訴える企業に対して、何らかの対策を講じようとする。しかし非生産的な企業が多すぎるという事がそもそもの原因であるとすれば、問題を解決するためにはその数を減らすしかない。それを実施するに当たって、消極的か積極的か、あるいは過激か穏健かの差はあるとしても、淘汰されるべき企業が淘汰されるに任せるべきであるというのが正論であろう。
 しかし先に述べたような事情のため、そのような政策の実施は現実的には困難である。しかし為政者という立場上、何もせず傍観するという事は許されず、何からの対策を取らざるを得ない。その結果として、ごまかすような事が行われる。いわば根本療法ではなく、対症療法でその場を凌ぐというような事になる。対症療法は一時的に痛みが和らぐという利点はあるが、長期的には状況を悪化させる可能性がある。
 その問題は物乞いに施しをする事の是非に似ている。発展途上国などには些細な見せ物などで生計を立てている子供などが存在する。目先の問題としては、幾ばくかを恵まないと、彼らは飢えるであろう。そう考えると、恵まないという判断は人道に反するように思える。しかし恵む事によって、物乞いという行為が持続する事になるのも事実である。
 さらに物乞いという行為が簡単に儲かる職業になって、物乞いが増加するという事態を招くであろう。施しは一見すると善行であるが、長期的には問題を悪化させる事にもなり兼ねない。物資が有り余っているうちは、物乞いが増えても対処できるが、いずれ問題は手に負えなくなるのは当然の成り行きである。
 見せ物をする貧しい物乞いの子供に小銭を与えるという行為と、倒産に瀕した娯楽産業へ税金を投入するという行為は、規模の違いはあるが、本質的に類似している。ただし後者の場合、恵むとか施すなどという印象の悪い言葉は回避され、需要の喚起などのようなもっともらしい表現が用いられるが、両者の意味する内容は同じであろう。
 また紙幣発行という手段も一時しのぎの対症療法になり得る。インフレが起きれば、借金は実質的に減るので、債務を負っている少数の大企業などは得をする事になる。紙幣発行は富の創造ではないので、その得は一般大衆が広く薄く損をする事で埋め合わされる形である。言い換えると、ある主体から別の主体への富の移転である。
 客観的には富の総量は増えるわけではないが、貨幣錯覚と呼ばれる現象があって、名目上では賃金は増えるので、実際には損をしているのにもかかわらず、主観的には得をしている気分になるという場合もある。被害者に被害を実感させずに富を奪って、少数に得をさせる事ができるので、紙幣発行は手品のような政策である。

5.3 時代の変化と価値観の更新
 エネルギーの生産性という観点から歴史を大まかに分類すると、中世以前の停滞期、近代の激増期、現代の微増期というように、三つの時期に区分できるであろう。それぞれの時代に特有の制度とは、その時代の実情の反映であると言える。
 中世の特徴として、政治的には封建制度があり、商業的にはギルドや座などがあった。生産性が停滞的であれば、社会も固定的にならざるを得ない。近代に入ると生産性は格段に向上し、それに伴って社会的な体制も変動した。産業構造も変化し、かつての時代では考えられないような贅沢な生活が実現した。現代の状況として、生産性は停滞したとまでは言えない。しかし過去一世紀の目覚ましい発展に比較すると、その変化は緩慢という程度であろう。
 人類史のほとんどの期間は窮乏の状態にあったため、伝統的には浪費を罪悪と見做すような価値観が持たれるのは当然である。しかし近代以降の技術的な革新によって、有り余る程の物質的な豊かさを享受できるようになったので、その結果として、浪費を正道と見做すような価値観が優勢になったと言える。
 現在では成長の速度は鈍化しているようである。そのように客観的な状況が変化したのなら、それに合わせて、考え方も更新すべきである。時代毎に相応しい価値観を持つべきである。時代が改まっているにもかかわらず、古い価値観のままで物事を判断すると、現実との間に齟齬が生じて、様々な形で混乱の原因になるであろう。

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