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新しい宗教を創ろう #8

 初めて『タイタニック』を観た時、小学生の私はただ単純に「寒そうだなぁ」という印象を受けていた。けれどそれから少し、恋をして、それからまたあの映画を観てみると、凍てつく海に浮かぶあのふたりへ「暖かさ」を感じた。さらにあれこれ学んでからまた改めて『タイタニック』を観たら、これは海洋ロマン映画の傑作だったんだなと驚いた。

 初めての出会いはきっと一度きりではなくて、飽きてしまったなら別の角度から、諦めてしまったならまた違う機会に、もういちど初めて出会うことで、そうしてようやく解ることもある。

 さて、レオナルド・ディカプリオがジム・ジョーンズを演じるという噂がある。公開は数年後になるかもしれない。けれどもしその主演が本当なら、いったいどんな映画になるのか今からわくわくしている。

 カルト宗教の事件を語るならば欠かせない「人民寺院」の創設者ジム・ジョーンズ。
 78年11月に900人以上での集団自殺を引き起こした、という事実だけでも有名だ。
 当初この団体は共産主義思想にキリスト教の服を着せたようなものだったらしく、行為そのものはよくあるカルトと同じようなものであった。最終的には南アメリカに土地を用意して、そこに教祖と信者だけの宗教的な村を広げた。ユートピアでも耕そうとしたのだろう。確かにそれが出来るなら、そうしても良かったし、成立した可能性もある。
 もしジムがヤク中ではなく、彼を支える側近が信徒の生命を尊重できる人々であったなら、というありえない仮定のもとに。

 創立時の理想は輝かしく、だから広げた風呂敷に人々は集まり、思想というものに不慣れな多くの信者は教義を知るほどに抜けられなくなり、やがて組織の拡大と共に教義ではなく金と暴力による支配力が必要とされ、教団側も今さら事態を顧みることはできず、信徒を搾取しては束縛して、それに起因する外部からの批判・圧力によりさらに先鋭化していき、最後には暴走して崩壊する。カルトの見本だ。

 カルト団体である人民寺院が設置して、そうして彼らの最期の息を埋めた町、ジョーンズタウン。オウム真理教などの過激派組織と同様に、この教団も薬物を(もちろん医療目的ではなく)信徒に対して使用していた。独自の規律は内部に容赦無い暴力行為を産む。他者の排斥のためには銃も使用された。議員がひとり、報道関係者も数人、撃ち殺されている。
 彼らはオウムと違って地下鉄にサリンをバラ撒いたりはしなかった。
 けれど自分達の子供を大量に殺害した。

 集団自殺の一部始終の録音が残っている。ジム自身がこの最期の演説で語っているように、彼はこの「革命」を後世に残したかったのだ。今のところそれは残念ながら大成功していて、ちょっと検索すればすぐに聴くことができる。
 
 決行の日、ジョーンズタウンのほぼすべての住人が号令のもとに死んだ。シアン化物などを混合した液体を経口あるいは注射によって摂取した。まずは子供達からだった。親からそれを与えられたのだ。赤ん坊の口に毒液を注いだという目撃証言もある。思想や宗教よりむしろ大人達を信じていたはずの子供達は、子供への愛よりも思想や宗教を信じる大人によって毒殺された。
 死者およそ900名のうち、未成年は1/3にのぼった。

 あとになってみれば「あの時ああしていれば止められた」「こうしていれば救えた」と言える。そうしてもちろん、その追求・検討に拠って次の被害が予防できる可能性はとても高まる。
 けれど気をつけなければならないのは、
「彼らは前提Aが分岐点Bに繋がるので誤答Cに結びついている」というふうに相手を分解して判別しようとする設問は、よっぽど詳しい情報が無いとだいたいの場合は誤答に至る、という点。
 宗教・思想信条だけでなく一般社会や小さな対人関係に於いてまで、だいたいの争いはこの「間違った正解」から産まれている。

 幼い頃の記憶はあんまり無くて、だから私はたぶんぼんやりした子供だったんだと思う。先生によく怒られていたような気がする。たぶん良くないことをしたんだろうけど悪ガキでは無かったはずなので、おそらく感情のどこかが欠落していたのかもしれない。
 とにかくぼんやりとした教師とのやり取りの中で、比較的印象が強いのは、
「どうしてこんなことを?」と詰問されたら「なんとなく」と呟いていた、ということ。
 ぼんやりした子供があれこれ考えて言い訳のために選んだ言葉とは思えない。今の私なら「脳内ホルモンの分泌量の関係で社会的倫理と反することを意図せず」などと説明したかもしれない。とはいえ当時の私には「なんとなく」だ。
 けれど先生はそれを答弁とは認めず、延々と私に「なんとなく」についての「説明」を求め続けた。
 “言い訳”や“嘘”を覚えたのは、その要求に従うためだったように感じる。

「彼らは前提Aが分岐点Bに繋がるので誤答Cに結びついている」という分解の方法は「なんとなく」の言語化、つまり「嘘」の発生に繋がる危険性がある。そうしてこの「嘘」「決めつけ」に依拠して始まる「ではこのように教えてあげよう」「私達が上手く導いてあげよう」という理論的正当性の生産が、実力行使の背中を後押しする。最初が嘘なのだから、その方法は当然ながら間違う。
 この世のだいたいのことは、相手と自身との関係性に拠って成立している。いっぽう的な理解、いっぽう的な先導は、いっぽうにとっての正解にしか辿り着かない。つまり相手を強制的に「間違い」と決定することになる。
 社会は立場に拠って成立している。残念なことに、いちど「間違い」として決定された者はどれだけ必要に値する問題提起をしようとしても顧みられることは難しい。何を言っても何も解らない相手。その虚しさ。こうして「間違い」側は「正しさ」側へ、本来は感じていたはずの愛情さえ失ってしまう。

「間違いを認める」という言葉は、間違っている人間が自分自身の間違いを認める、という場合に採用される。「正しさ」への服従を前提とした言葉だ。
 そうではなく、「間違い」なんてものは厳密には「立場の違い」でしか無いのだ、と考えてみたらどうだろう。「間違い」である者を認めるということ、つまり自身の「正しさ」もまた誤答に起因する単なる立場でしか無いと認めること。そうして「間違いを認める」ことが出来たら、そこで交わされる言葉はどんなに楽しいだろう?


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