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差違の差違

 沖縄で暮らして1年以上が経ち、軽い方言ならニュアンスで理解できるようになった。「住めば都」という言葉があるけれど、これまで幾らかの土地に住んできた私にとってそれは結構な嘘だ。「住んでるとなんとなく慣れちゃう」が正解である。方言も文化も当然ながら千差万別であり、そのすべてを受け入れるなんてことはそこで生まれ育ちその土地しか知らずに死んでいくとしても、まず無理だろう。
 さて、例えば沖縄に移住しようという人なら、マスコミが作り上げてきた南国沖縄のイメージはほとんど嘘である、ということはもちろん御存知だろう。逆に、ネットに転がっている悪い噂をそのまま信じるのは単純なレッテル貼りだ。
 「住めば都」と同様のカテゴリに「郷に入らば郷に従え」という言葉もある。「嫌なら出てけ」を連想させる暴力的な言葉にも見えるけれど、善意的に取ればさほどおかしな押しつけでもない。新しい集団内で上手く立ち回りバランスを取ろうとするのはむしろ最善である。

 そう、差違は当然ある。けれどこの認識は、それなりに多くのことを考えたすえに辿り着くべきとりあえずの結論であって、ひとつの常識しか知らずそれ以外を非常識と見なす人々は時に、この「違い」の原因を一方的なものにしてしまう場合がある。

 つまり、差別が産まれる。

「差違」とは常にどちらも基準なのだけれど、ひとつの側からの「差違」をだけ支える者は相手だけを「差違」と見做す。差違についての認識にすら差違が生じる。どちらも基準、という前提が崩れると、この「差違の差違」という馬鹿らしい差違が刻まれる。

 私がここで書きたいのは、沖縄でそういうことが起きている、という主張ではない。まぁ当然あるにはあるけれど、そんなもの日本全国どこにでもありふれていて今さら記すまでもない。むしろ逆で、私はこの差違の克服のために、つまり自身の中の馬鹿らしい差違の差違を打ち消すためにこれらのことを考えてきたのである。

 とはいえ、あまりにナチュラルな差違を埋めることはまず不可能だし、これに関してはどの土地でもごく当然にある「仕方ない」で耐えるしかないだろう。文化的に根付いたものは、こちらには差違でもあちらには普通であり、例えば島育ちの人に「明日から山手線の満員電車で通勤しろ」なんて残酷なことを私ならば提案しない。誰だってあんなもので通勤したくはない。けれど仕方なくしなければならないのだ。多くの場合、普通とは普通ではないのだから。


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