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専門家も時として間違えるが、素人はそれ以上に間違える。

 今回の記事は、下記の記事を参考にして書かれています。

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 ある問題や事象についての専門家の知見を参考・引用しようとする際には「専門家たちの意見は割れているか、それとも一致しているか?」(アンソニー・ウェストン著・古草秀子訳『論証のルールブック(第五版)』(ちくま学芸文庫、2018年) p73~p75)を確認しなければならない。

 特定の問題・事象についての専門家の立場・見解を引用して提示する際には、その専門家の立場・意見が主流派か否か、その問題を巡っては専門家の間で意見の一致や概ねの統一見解があるのか否かを確認する必要がある。

 「もし大半の意見が一致していれば問題なく受け入れられる見解であり、それに反対する意見はいくら説得力があるように思えても実は浅慮と言っていいだろう」(参考元は同上)。

 専門家の大半が採っている立場や見解にはかなりの説得力があると思ってよいだろう。

 とある問題についての専門家たちの統一見解を論駁するのはとても難しい。ましてや、その論駁を専門家ではなく、素人が行うというのは至難の業だ。「専門家の意見が間違っていることは時としてある。だが、素人の見解はそれ以上に間違っているものだ」(参考元は同上)。

 とはいえ、専門家の間でも統一見解が未だに存在しない問題も多い。

 そのような場合は、専門家の間にどのような意見や立場の相違があるのか?主たる対立を生んでいる争点、すなわち主たる対立軸は何なのか?立場の間の形勢は現在に至るまでどのように推移してきたか?などについて慎重に思慮深く判断を下すべきである。「豊富な知識を持つ人々が慎重に扱っている問題を慌てて判断してはいけない」のだ。

 これと同時並行で、自分の結論や論証を見直してみることは持論に磨きをかける上でとても大事であるだろう。

 勿論、専門家も万能ではないので誤ることもある。

 しかし、彼らは多大な時間と労力とお金をかけて、高水準の手法や設備を用いて、他の同業者との議論を重ねて、特定の問題について考えたり実験したりして研究することを生業としている。この世には、そのような者たちが一生懸命考え抜いても結論が出ない問題ばかりあるのだ。

 既存のアカデミアには改善すべき点も多々ある。しかしながら、専門家が素人よりも多大な時間と労力とお金をかけて、素人よりも高水準に研究していることは確かである。

 歴史的な視点から見ても、古今東西の数々の類稀なる天才たちが思考や実験や議論を何千年も重ねてきている。それでも結論が出ない問題ばかりなのだ。

 それなのに、どうして素人が結論を導出できようか。素人にはそのようなことができるはずもない。専門家や史上の類稀なる天才ですらできないのだから。

 このように考えると、「結論や答えや真実というものが存在する」というのは錯覚だと思った方が良いとすら思えてくる。

 今回の内容の続きは次回で取り扱うことにするので、次回も読んでくれると嬉しいです!


 

 

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