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「かもしれない」思考を持とう

 今回の記事は、下記URLの記事を参考にして書かれました。

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 私(日本人)の実体験なのだが、ウェールズでホームステイしていた際に、ホストマザーに「以前、日本人に会ったことあるのよ。彼はとても真面目だった。きっとあなたも真面目なんでしょう?」と言われたことがあった。

 これは類推の一例である。というのもホストマザーは、以前会った「彼」と私の間に「日本人である」という共通点(類似点)を見いだし、その共通点(類似点)を根拠にして、「真面目である」という性質もまた「彼」と私に共通するだろうという推測を行ったのだ。

 噛み砕いて言うと、「真面目な彼は日本人だった。私は日本人である。彼と私は同じ日本人である。ということは、私は彼と同じく真面目であるだろう」ということだ。このような推測を類推と呼称する(極めて簡易な類推だが)。

 「類推」とは「論理学で、二つの事物の間に本質的な類似点があることを根拠にして、一方の事物がある性質をもつ場合に他方の事物もそれと同じ性質をもつであろうと推理すること」である。
https://www.weblio.jp/content/%E9%A1%9E%E6%8E%A8

 「類推による論証では、例をいくつも並べて裏付けるのではなく、二つの事柄が多くの点で類似していることを根拠にして、一方がある特定の性質を持つ場合に、もう一方も同じような性質を持つはずだと推論する」(アンソニー・ウェストン著・古草秀子訳『論証のルールブック(第五版)』(ちくま学芸文庫、2018年) p55~p56)。

 ホストマザーの上記の類推は当たっているかもしれないし、間違っているかもしれない(一応、私は真面目であると自負しているが)。

 類推は日常生活においてかなり頻繁に用いる推測であるだろう。我々人間は、いつでも、どのような場合でも十分な情報を手に入れることができるわけではない。むしろ、情報不足は日常茶飯事であり常態である。そのような状況下に置かれる我々にとって類推は必須技能であると言えよう。

 類推が必ず当たっているとは思わないでいただきたい。類推は当たっているかもしれないし、間違っているかもしれない。一般化と同じく、類推も「事実よりも分かりやすさ」を追求するための手段である。

 はっきり言って、類推の正確性には自信を持たない方が良い。基本的に、一般化や類推を用いるときは「間違っているかもしれない」という心構えを堅持しているべきだ。

 類推を行う上で重要なことは、「二つの前提はあらゆる点で似ている必要はない。類推による論証は、適切な類似性を必要とする」(参考は同上)ということである。

 先程のホストマザーの類推が当たっているか間違っているかはともかく、その類推の肝は、彼と私の間にある「日本人である」という共通点(類似点)である。両者とも「日本人である」ことが、両者とも「真面目である」ことの根拠となっているのだ。

 この場合、彼と私の容姿が似ている必要はない。仮に似ていたとしても、それについて言及する必要もない。なぜなら、類推の肝となっているのは二人の容姿ではなく、二人の「日本人」という要素なのだから。

 ただ、ホストマザーが行ったような簡易な類推は日常生活ではありふれたものであるが、議論においてはもっと慎重な類推を行うべきである。

 類推や論証が「確かな前提」に基づいているか。本質的な類似点が他にないか。それが本質的であると言える根拠は何か。そういったことについてもっと慎重に考えるべきである。

 たしかに国民性には一定の傾向性があるのかもしれない。しかし、一定の傾向性があることは必ずしも事実であることを意味しない。

 いや、事実かそうでないかと問われれば、高確率で事実ではないのだろう。高確率で反例は存在する。とはいえ、ほとんどの場合、我々人間は「事実が何であるか」を知ることはできない。

 では、どうしたらよいのか?

 「事実である可能性が低い」ということや「事実を完全に表現することはできない」ということを自覚しながら、ある時点・段階で妥協して一般化や類推を用いることしかできないのだ。

 勿論、すぐに妥協するのではなく、必死に考え抜いた末に「このままだと永遠に考えてしまう。人間の頭でいくら考えてもキリがないや」と妥協するのだ。



 


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