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ドビュッシーの真実

ドビュッシーの真実  第3回・第4回 を体感して参りました。

私の個人的な日々の感覚の話をします。

表現の源はどこにあるのか?

そもそも人間が何かを表現するということは、
表現したいという想いが根元にあると想定して話を進めてみる。

生きていくうえで、毎瞬間生まれる感情、受け取る感覚、ほとばしる気持ち、静かに何かを想う氣持ち。

今、目の前にある物理次元の、モノ、コト、時間軸。
制限がある、境界線がわかりやすい、
そんな今までの時代は、何もかも、コントラストを描きやすかったのかもしれない。

その中で自由に形なるものが、日常の想いの中から生まれ続けてきた。

“形なるもの”に成った時、
それは、脳内の思考の世界から、
一気に遠くからの視点がはっきりと捉えられ、
これがこんな形に成ったんだ、こんな陰影を生み出すんだ、
と第三者の視座が生まれる。

そうした時に、初めて 自分1人の脳内で描いていた“何か”が 他者との共通認識として、ここに存在を成す。

何が言いたいかというと、
脳内に確かにあるビジョンや感覚があって。
それは言葉では形容し難い感覚であり、
故に言葉ではない表し方で、人は知らずと、表現している。

キャッチして受け取った方も、
それは当然の如く言葉にし難く。

ただ、ここには確かな感覚と感情が生まれて、
さざなみの様に、寄せては返して、
風のように、漂い畝り返り跳ねて
光の様に キラっとしたり影を落としたり、
今ある大自然の不思議と何ら変わらず、
こうして “ただ ある”。存在する。

息を吸って吐いて存在する
この“自分という存在とは?”

それを問うてみると、
人は(知ってか知らずか)毎瞬間、吸って吐いて、
何かをインプット&アウトプットし続け、
表現し続ける循環の摂理。
それもフラクタル構造。になるのではないか?

印象派、ドビュッシー、モネ、それらの皆さんにも伺いたい。
ただ存在する この世の全て の循環。摂理。フラクタル。

そこに秘めた(意図も何もしていない)“何か”を感じる時そのものが、
生きている証であり、
命を感じている事=自分が存在している意味
に他ならないのではないか。

“我思う故に我在り”然り。そこに形式は要らない。既に自然の摂理があるから。

「表現とは呼吸をフラクタルに拡大させたもの」

そんな風に感じる、約3時間×第二・三夜の、音楽工房ホール。
大きな自然の中に生きる人間と風景を 私は垣間見た。
時空を超えて、悠久の時を経て。今もなお続く、過去からの今。

1人の演奏家から放たれた音の世界で、
私は垣間見る。
ドビュッシーの真実を。

ありがとう。
さよならドビュッシー。
2024.冬から春に向かって。
〜*。山の子供elica。*〜

今西泰彦氏

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