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オモコロ:彩雲さんの「星に願いを」を本気で解釈(約5000字)

 つい数日前、オモコロの彩雲さんの「星に願いを」と言う記事を久々に読み返した。
 思いがけず心に刺さり、結構泣いてしまった。まじで号泣。

 8年はオモコロの記事を見続けているが、面白がることはあっても、泣いたことは一度もなかったので、衝撃的なことだった。

 せっかくなので、感情の動いたままに、解釈・感想を全力で書きたい。
(記事の内容を前提に書いているので、まず一度読むことをおすすめする。)

 以下、手前勝手に解釈を書くが、「絶対こうだ」と断言したいわけではない。(また、字数は多いが画像を10枚以上作成しており、画像さえ見れば言いたいことは分かるようにしている。ざっと画像だけでも見てくれると嬉しい)



★★物語解釈編★★


順を追いつつ解釈を書いていきたい。


①主人公は「力無き者」だ

→主人公の男が、4つに連結されたヨーグルト(味が4種類)の蓋を一気に開け、食レポする記事を書く。


 ヨーグルト4種の一気食いを、「贅沢」と表現し、面白くてウケると考える。何だか、主人公の経済的な貧しさを想起させる。

 かつ、記事の写真、表情、食べ方、コメント、ギャグについても、大衆受けしなさそうだ。(「逆にこれが面白い」とウケるケースも世の中にはあるけど…なかなか難しそうだ。)
 つまり、色々な意味で力無き者と言い換えても良い。


②作品に「愛情や幸福な空想」を抱く。

→自分の書いた記事を見て、にやつく男。


 しかし、主人公は欠点を自覚しているそぶりもない。ただ、楽しそうだ。
 つまり、主人公は、この記事を心底面白いと思っている。周囲からの良い反応なんかも夢想しているかもしれない。
 この時点で、映画の「真夜中のカーボーイ」とかを思い出して、切ない。
あの映画で、ダスティンホフマン演じる足の悪い男が、現実では貧しい生活をしながらも、夢の中では、人々に愛されて彼の作る不味そうな料理を人々に求められたり、速く走れたりする。

 力無き者による、「自分の愛するものが、皆にも愛される」という空想は、切ない。
 他愛のない空想で、現実から乖離しているほど、ほろ苦い。


③現実で、「愛情」は「数」に否定される。

→「編集長」に記事を見せる。編集長は記事を印刷し、いかめしい顔で破く。破かれた紙の前で、主人公は打ちひしがれる。


 ついに主人公が現実と対峙する。自分の「面白いと思ったもの(=愛情や美意識)」が、現実で通用しなかった。

 では、何故編集長は、コテンパンに、主人公を否定したのか
 それは、会社運営のWebメディアには、「PV(閲覧者数)を増やして、収益につなげる」目的があるからだ。そのため、「こんな記事はウケない(=儲からない)」と意識が働けば、会社の責任ある立場として、怒って否定するのだろう。(もし趣味で作るなら、普通怒られないはず。)

 そもそも、「個人の美意識」には正解がないため、他者に基準を押し付けられるべきものではないはずなのに。利益を求める組織と関わることは、なかなかしんどい。


④大切な想いを捨てずに、願いを抱く。

→主人公は、破れた紙を持ち帰り、帰宅。紙を煮つめ、星の型に入れてレンチンする。固まった星形の塊を黄色く塗って微笑む。



 主人公は、破かれた紙(=「否定された、愛情や美意識」)を捨てなかった。これは、結構大切で難しいことだ。
 自分の「愛情や美意識」を、「数」で否定されると、結構傷つく。そして、「確かにそうかも」と諦めて、当初の気持ちを捨て去る人もいる。なかには、かつて「数」に傷ついた人も「数」に呑み込まれ、年を取ってから後輩を「数」だけで否定する人もいるだろう。(クリエイティブ業界によくありそうだ)

 続いて、破れた記事でできた星の意味を考える。これは、「世間に打ちのめされても、形を変えて再び美しい物を作ろうとする決意や願い」と感じた。

 言葉にすると爽やかだ。だが、星を作る工作手順はなかなかキモくて、ちょっと笑える。だけど、これは一人の人間が、自分の純粋な部分を大切にするために行う、とても切実なキモさだ。だから胸に沁みる。世の中、器用で、清潔で、共感されやすい行動をするやつばかりではないのだ。


⑤「星が上昇する」意味とは?

→星を手に持ち、驚く主人公。星が夜空に昇り、それに手を伸ばす。場所が、室内から、星の輝く夜空のもとに変わっている。


 星が、手を離れて上昇。
 これは、「愛情や美意識を大切にしたい」という願いが、思っていた以上に崇高で大切だと、手さぐりで模索して、何か形にしながら気づいたのかもしれない。否定された悲しみなんか、小さなレベルになるほどのこと。
 昇る星に、腕を伸ばす。願いを追い求める気持ちの表現と感じた。

 少し違った角度からも「星の上昇」を考えた。
 それは、「偽物の星が、本物の星になる」(=非現実的な願いが現実になる)という解釈だ。
 つまり、「今は不確かな<美意識を捨てずに強く生きること>が、いずれ確かな現実になる」と空想しているのかも。

 ふと、ハイロウズの「十四歳」の歌詞を思い出したりする。

リアル よりリアリティ
リアル よりリアリティ
リアル よりリアリティ
リアル よりリアリティ リアル

ザ・ハイロウズ「十四歳」より引用

 この歌詞は、「リアル(=現実)」よりも「リアリティ(=現実に似ているが、現実ではない偽物。)」を愛おしむ心を大切にしたい、ことを示すと私は考える。

 「十四歳」では、語り手の愛する物(=音楽・レコード)との出会いを「リアリティ」を感じさせる言葉で表現されている。
 この歌詞全体と、「星に願いを」の記事はかなり重なると感じて、味わい深い。


⑥「甘くないバウムクーヘン作り」の意味とは?

→手を伸ばしたままで、床に倒れている主人公。起きて、少し晴れやかな顔で、「【新記事案】・甘くないバウムクーヘンを作る」と書く。


 主人公は大切な気持ちを強く認識した。ゆえに、目覚めてから再び動き出し始めたのだろう。

 さて、「甘くないバウムクーヘン」というチョイスも良いなと思った。
 以下、妄想的かもだが、考えていて楽しかった。

 私は、「バウムクーヘン」=「ライター」という職業を示すと空想した。
バウムクーヘンはおやつで、食べた人を幸せにする。しかし、「栄養目的で食べる」人は少ない。ライターは、人の心に影響を与えるが、「生活に絶対必要な物の提供者」とは若干言いにくい。(その意味で言えば、「電車の運転手/看護師」とかは、「卵/鶏肉/野菜」的だと思う。)

 さて「甘いバウムクーヘン」は、簡単に入手できる。つまり、「気軽にできる、甘くて幸福な憧れ」だ。
 一方、「甘くないバウムクーヘン」は、「憧れていた世界の現実は、甘くて幸福であるばかりではない」ことの象徴だ。
 それでも、「甘くないバウムクーヘン」の記事を書こうとするのは、「甘くて幸福ばかりでない現実を知っても、やっぱり、好きだから向き合いたい。」からだと感じた。

 (もしかしたら、「星に願いを」の記事自体が、「甘くないバウムクーヘンづくり(=愛情の告白)」なのかもね。)


★★深掘り・連想篇★★


●記事を書くとはどういうことなのか。

 「記事を書くとはどういうことなのか。」と、記事冒頭のメッセージにあった。
 「個人」が「世界」にぶつかり、影響を受けたり与えたりし続けることではないかと、私は思う。
(他の職業だって、そんな側面はある。しかし、記事の執筆は、「人の心に影響を与える」ことを目的とする側面が強い点で結構特殊だ。例えば、歯医者は「歯を治す」のが第一目的で、「人の心に影響を与える」ことではない。)

 だが、記事の執筆は、「個人」的な恐ろしく孤独な作業なのに、「世界」は非常に大きい。このギャップが、時にかなり大きい。
 だが、「孤独な美意識」が、やがて深く人の心を打つ何かにつながることがあるのかもしれない。


●あらゆる人に通ずる物語だ。

 この記事が心揺さぶる対象は、ライターや編集者に限らない。というか、世の中の大体の人の心に訴えるパワーを持つと感じる。

 何故なら、「愛情や美意識」VS「数字」に、誰だって苦しんだ経験があるはずだから。

・困っている人が気になっても、無視しろと言われた人。
・相手のために丁寧に仕事をするより、効率的に働けと言われた人。
・楽しむよりも、点が取れるプレーを求められた運動部の部員。
・好きな曲よりも売れる曲を書けと言われたミュージシャン。

 こうした現実に傷ついても、また何かを願おうとする人はいる。そんな人たちを、この記事は勇気づける力を持つのではないだろうか。


●芥川龍之介の随筆『追憶』 を連想

 ふと、芥川龍之介の随筆:『追憶』を思い出していた。

 確か小学校の二、三年生のころ、僕らの先生は僕らの机に耳の青い藁半紙を配り、それへ「かわいいと思うもの」と「美しいと思うもの」とを書けと言った。僕は象を「かわいいと思うもの」にし、雲を「美しいと思うもの」にした。それは僕には真実だった。が、僕の答案はあいにく先生には気に入らなかった。
 「雲などはどこが美しい? 象もただ大きいばかりじゃないか?」
 先生はこうたしなめたのち、僕の答案へ×印をつけた。

芥川龍之介「追憶」より引用

 芥川だって、幼い頃はこうだった。美意識を否定された悲しみや反抗心を、芥川も持ち続けていたのかもしれない。
 勝手な空想だが、「誰にでも嫌でもわかるほどに、滅茶滅茶美しいものを作ってやる。」という気持ちで、文章表現の力を恐ろしいほどにつけた側面が多少はあるのかも。結果、現代まで多くの人の心に訴えているではないか。


●妄想:この記事にOKを出して演じた原宿さんがすごすぎ

 この記事の公開は、「Webメディアでの記事作成の悲しみを告発する記事を、実際にオモコロと言うWebメディアで公開すること」だ。すごい。(例えば、「歌舞伎役者が歌舞伎で歌舞伎の闇を暴く」とか「ジャニタレが事務所の問題点を告発する歌を出す」とか、絶対にできないよね。)

 加えて、この記事ができる一連の流れを考えた時に、オモコロ編集長の原宿さんに突き付けられた、記事という<刃(やいば)>だなと感じた。原宿さんが編集長役で登場するのもすごい。(実際、原宿さんがこの記事のアイディアを聞かされて、作成に協力した経緯が、気になって仕方がない。

 もし、自分が編集長で、新人ライターにこれを出されたら...と思うと、怖すぎる。この記事を否定すれば、物語中の嫌な編集長と同じだ。その時、本当に自己嫌悪に陥るかも...その感性があれば、この記事をボツにできない。(逆に、公開OKとすることで、「自分は記事内の「編集長」のような人物ではない」と表明できる。

 やってることが過激すぎん?こんなことをする彩雲さん・協力した原宿さんはどうかしている。(褒めています)(でも、そういうことをするから、オモコロが好きなんだよな。)


●「星に願いを」の歌詞が染みた

 「星に願いを」の歌詞の英語版に、「Makes no difference who you are」という一節がある。直訳すると、「(星に願う時は)何も違いはない、あなたがどんな人であろうと」。

 私は、「どんな人」とは、「力無き、弱き者」だと捉えたい。意訳すれば、「あなたがどんなに力無き弱き者であろうと」かな。
(「力がある、今ハッピーな人は、わざわざ星に願わないだろう。)

 記事の内容(=力無き者が願う話)が、歌のイメージに重なる。そのため、ふさわしいタイトルと言えよう。


●個人的な鑑賞体験として

 私は、自己嫌悪しやすい方なのだが、そのせいもあって、「昔は好きだったのに、今は苦手」になったものが少なからずある。
 でも、「初めの気持ちに向き合う」ならば、些細なことはどうでもよくなって、また愛せるものもあるのかも。そう感じて泣いてしまったのかも。(別に人の気持ちが移り変わるのは当然だが、くだらないことが原因で、心の中を不自由にするのは、時に悲しいことだから。)
 それから、なんというかオモコロの記事を何気なくみただけなのに、チャップリンの映画と同じくらいの気分になったというか…。映画評論家の淀川長治さんもこの記事を読んだら褒めると思う。ニコニコ動画なら、「もっと評価されるべき」のタグをつけたい。


●最後に

 いや~頑張って書いた!く~つか!

 この主人公がどうなっていくのか、「星に願いを2」をいつか見てみたいな、という手前勝手な気分になった。彩雲さんの記事、一見かなりキテいる内容だが、よく見ると妙に詩情を感じさせるものがあって、そういう所が好きだな、と思った。そういう記事の方が、時間をおいて読み返したりしたくなる。これからも楽しみにしたいな。

 以上!ここまでの長文を読んでいただき、ありとうございました!