「優劣のランキング”が、やがて“人権がない、生まれてこない方がいい”に…SNSや日常に顔を覗かせる「優生思想」」という記事に触発されて。

2月18日の「優劣のランキング”が、やがて“人権がない、生まれてこない方がいい”に…SNSや日常に顔を覗かせる「優生思想」」という記事(https://news.yahoo.co.jp/articles/d17144ce4d66f4edfb444c6d1036068a356c33ab?page=4)に触発されて。


「格付け」という言葉でありとあらゆるものを指標化していく政治体制は、それが全体主義だろうと新自由主義だろうと、結局同じところに収束してしまう。
『新約聖書』に「タラントのたとえ話」というたとえ話がある。主人(神)が旅に出ている間に、召使い(人間)が預けられた5タラント、2タラント、1タラントのお金をどう使ったかという話だが、それはそれぞれの限りある人生において与えられた時間と資質をどう使うかということである。それぞれの条件の中で、与えられたものを精一杯使って、何らかの実りを残していくという生の姿勢が、主人(神)の物差しから見れば貴重なのであって、それぞれが「いくら」もうけたかは人間の物差しである(黒澤明の「生きる」の志村喬が演じる有名なブランコのシーン)。
 そして人間の経済的思考はむしろ、このそれぞれのそれぞれに貴重な努力(そこに「人間の尊厳」がかかっている)を、共通の物差しを作り、互いに接続し相対化していってしまう。もちろんそれは経済を実際に回していく上では必要なことだが、その結果はこうした社会の全面的な「格付け」化による、優生学的思考の跋扈にしか行きつかない。ビック・データによる信用社会の到来も、精子バンクや自己整形手術の横行も、結局はそうした潮流の一側面だろう。まあ私だって、才能もないくせに毎日外国語を覚えるために無駄な努力をするより、大金を払ってこれを飲み一発で記憶力が良くする方が合理的ですよという誘いにしたがって、自分の人生を変えようとするだろう。だが、それでも人生の外れくじと当たりくじを引いてしまう人は出るんだけどね。メリトクラシーだけに凝り固まっている人は、サンデルの『実力も運のうち』という本を読むといいと思います。
 幸か不幸かこういう状況の中で、「人間の尊厳」のよりどころとなるのは、我々一人一人と一対一で対面する一神教の神しかありません。それを抜いたら、自由や人権の思想も生まれなかったことでしょう。私が、こういう時代にあっても、何とか信仰者であり続けようとすることの意味はここにあるのだと思います。

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