なぜウクライナの話にここまでこだわるのか

    なぜウクライナの話にここまでこだわるのか。一連のニュースが耳に入り始めた時、奇妙な違和感、もっと言えば既視感を感じたからです。それは、リビア政変やイラク戦争開始の時と同じだということです。つまり真偽定かならぬ情報が錯綜し(イラクの場合だと「大量破壊兵器問題」)、その中である政権が〈絶対悪〉に同定され、問答無用に戦争が始まっていく。ポイントはカダフィもサダムも、決して白い手の善人ではない、たたけば埃はいっぱい出る指導者だったということです。ただそれだけでは、国際政治から問答無用に排除できる決め手がない、そこで別件逮捕的なやり方をでっちあげて戦争まで追い込んで行く。巻き狩り的なやり方です。

    これら二つの例だけでなく、「何が何でも戦争したいとき」アメリカは馬鹿の一つ覚えのように、この同じ手を使っていました。日米開戦の時もそうですし、米西戦争からアメリカはそれしかやってこなかったとすら思っています。終わったあと歴史家は、そこに「無理を通せば道理が引っ込む」的不公正があったことを検証しますが、プロセスに問題があっても「独裁者が倒されたんだから「まっ、いいか」」と忘却してしまう。その結果国際世論は、なんど騙されても性懲りもなく騙され続けることになる。「アレクサンデル6世はただ人をだますことしか考えず、それだけでやってきた人であったが、それでもなお、だます相手に不自由しなかった⋯⋯彼はよほど人間のこうした面を心得ていたのであろう」(『君主論』第18章)。NATOの東方拡大のプロセスを見直してみましたが、有名なベカー国務長官のゴルバチョフに対する発言だけでなく、それ以後の過程を見てもこの問題について毎度毎度アメリカに騙され続けるロシアが哀れになってくるほどです(「ロシアは他国をだます国」という思い込みが不思議に見えるほどの可憐さですわ)。

    加えて、地政学的に緩衝国であることの宿命を避けられないウクライナとその国民が、「蛇のように賢く、鳩のように柔和な」フィンランドやスウェーデンと比較して、独立以後どれほど軽率で愚かな政治を繰り広げてきたことを見れば、いまの苦境も冷たい言い方ですが自業自得としか思えない。

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