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3分で読める寝りにつく前の話

「お手本」

伝票に触れた瞬間、しまったと思った。

家から徒歩3分のスーパーは、小さいけどカフェや理髪店、アイスクリームショップにクリーニング店まで並んでいる。ここに来ればいっぺんに用事が片付くので助かっている。

しかし今日は天下の日曜日。しかも五月晴れだ。早起きして、シャワーを浴びて、爪も切って、カフェのテラス席でブランチと洒落込んだお会計のその指先で、スーツの引き取り伝票に触れたくはなかった。コツコツ積み上げた前向きな気持ちが一気に崩れてくる。

上司からの仕事の指示は増える一方だ。やる気をアピールしておこうと進んで手を挙げた4月の自分を、今となっては恨むばかり。頼まれると嫌とは言えない性格も災いして、仕事は舞い込み続けている。残業に次ぐ残業で、このままでは五月病待ったなしだろう。

はっきり断りゃいいんだよ、と同期の連中は言うが、のらりくらりと躱しているだけに見える。誰か一人でも、嫌です、とキッパリ断ってくれる姿を見せてくれればいいが、そんなヤツはいない。

渋い気持ちでコーヒーに口をつけると、隣の理髪店前のベンチで、散髪に来た母子が順番待ちしているのが目に入る。母親はスマホを差し出して、こんな髪型はどう?と尋ねた。すると画面をじっと見た子どもが、大きくはないけどはっきりと聞こえる声で言った。「いやだ!」と。嗚呼、この子のように断れたらなぁ。

明日からも俺は働くだろう。だけど何だかあの子が気持ちを代弁してくれたようで、偶然の一致が嬉しくて、スーツを引き取ったら出かけるかな、と思えた。勝手に勇気をもらったのだ。はっきりと、いやだ!って言ってくれて、ありがとう。

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