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おかしいのは私、なのか?

かつて小学校に先生として勤めていた頃のこと。

日頃はしないような仕事が目白押しの年度末(3月の後半)が、あまり好きではありませんでした。パソコンに向き合う作業時間が増えるし、莫大な時間を会議に費やすことになるし、何より、子供たちのいない学校はガランとしていて寂しいのです。あるいは、職員同士の関係性がイマイチだと、コミュニケーション不全を理由に疲弊させられることになる。今回はそのあるいは、の部分のお話です。

学級編成や書類の入力・整理に忙殺されるなか、次年度の体制に向けた準備が進み始める頃こと。朝の会議で、担当の教員から、各教室にある机と椅子のサイズを調べ、数を集計するようにとのお達しがありました。新年度になれば教室の配置転換に伴って児童の机椅子の数を調整するので、その際の労力を最小限に抑えるべく、あらかじめ数を調べておくのです。

配布されたプリントを見ると作業は金曜日までに終わらせておくようにと記されていました。今日は月曜日なので、まだ余裕がある。同学年の先生との話し合いや自分の仕事の予定を踏まえて、水曜日の午後に机椅子の集計をしようと考えました。

翌日、火曜日の午前のこと。職員全体での作業終わり、くだんの机椅子の担当の先生(仮にA先生とします)と他学年の先生(仮にB先生)と私の3人がたまたま近くを歩いていたら折、以下のような会話がありました。

B先生「先生、机椅子の集計やった?手伝おうか?」
私「いや、まだです。明日の午後にやる予定なので大丈夫ですよ」
B先生「え、今やれば3人だし、早く終わるよ」
A先生「そうそう」
私「あの、でもこれから別のことをする予定ですから」
B先生「え〜、手伝ってもらえばいいのに、ねえ」
A先生「うん、本当に」
私「ははは、まぁ…あの、大丈夫です」

今思い出しても何がはははなんだかわからないが、何やら居心地の悪い空気を曖昧な笑いでやり過ごして、私は職員室に戻りました。

夜が明けて、水曜日の朝。私が出勤して予定を確認していると、向かいの席の先生が爽やかに話しかけてきました。「A先生とB先生が、教室の机椅子の集計やってくれたみたいよ。一言お礼を言っておくといいよ」と。そうですかわかリマした、ありがとうゴザいますと答え、混乱しつつ教室を見に行くと、果たして、移動される予定であろう机椅子が、廊下に出されて、並べられていた。

一応断っておきますが、私がその日に遅刻したとか、心変わりして手伝いを依頼したと言うことはありません。つまらない感傷と言われるかも知れないけれど、私は、自分が子供たちと一年間を過ごした教室を、最後まで自分の手で片付けたかった。たとえ効率的でなくとも、そこに無粋に立ち入ってきてほしくなかった。すぐに職員室に降りてA・B両先生にお礼を述べたが、あの時の私はどんな顔をしていただろうか。眉間にシワが寄っていなかっただろうか。自信はない。

もちろん、おかしいのは私だという人もいるだろう。やってもらったことに素直に謝辞を述べ、良い同僚に恵まれたものだと感謝の気持ちを胸に眠りにつくのが「普通」なのかも知れない。しかし依怙地な私の胸にこびりつくのは違和感だ。私の裁量でやって良い仕事を、期限を破っているわけでもないのに、勝手に進められた上に、その相手に礼を述べなければならないのか、と疑問や怒りが燻る。

上の会話を読み返してみても、誰かが間違っているわけではないのだから、あとは個人に任せれば良いじゃないですか。でなければ初めから「こちらが声をかけた時に動いてください」と記しておいてほしいものです。でも何より、自分の気持ちを伝えきれなかったことに悔いが残っていのでしょう。ここに供養しておきます。

「子どもたちとの思い出が詰まった教室なので、できる限り、自分の手で片付けたいんです」次からは必ず、こう伝えることにします。

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