旅と情報

「どこの飯屋が美味かった」
「誰それの曲が良かった」

食べる・聴くなどの経験あっての個人的な感想って素晴らしいし素敵だ。
体験記やエッセイが好きというボクの嗜好は、こんな考えが原点なんだろう。

一方で、料理にしても楽曲にしても「人の作品」を利用して「儲けてやろう」とか「得をしてやろう」という思惑が透けて見えると、もどかしく感じちゃう。
「人のフンドシで相撲をとって儲けたら、ちゃんと作者に還元してあげてね」なんてね。

匙加減が難しいところなのでボクも何か書いたり説明したりのときは悩みどころの部分なんだ。

どこそこのラーメンは、魚介豚骨系の名店●●系の人気店で修行、独立した店主が半日かけて丁寧に仕込んだスープと、●●製麺所に別注をかけた北海道産小麦のみを原料とした中太の縮れ麺、国産ブランド豚のバラ肉チャーシューは口の中でホロホロとほぐれ…

なんだかみんな似たような文体の「解説と情報」ばかり。
「実際にそこに足を運んで、食べてみたら美味しかった」ら、それでいいわけだし、口に合わなかったらそれもまたそれで経験なのかなって。
食べなくても満足できるくらい事細かに説明されちゃうと、アソビやユトリの部分が無くなって「自分の経験に基づく感想」が邪魔されてしまうし「新たな経験との出会い」も減っちゃうかも知れない。
極論だけど、書籍や映画紹介で同じことやったら営業妨害って言われかねないよね。

「この場所はこういう場所だから、こう振る舞う方が安全です」みたいな最低限の知識だけ放り込んで、脳は身軽な状態、つまり素直な気持ちで旅という経験を楽しみたいし、できる限りそうするようにしてるんだ。

「まさかの発見!」がある旅って、情報不足のときの方が経験的に多かったかも。
これもただただボク個人の考え。
マニュアルや情報がないと動けないタイプの人もいるし、逆にあるとダメなタイプの人もいる。
まぁ、みんな好きに楽しめばいい。ってのが本質なのかな。
人ってさまざまだね。

GIO.

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